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クマと馬の生殺与奪

  • 2023年10月19日(木) 12時00分
 最近、フェイスブックなどのリール動画にクマがやたらと出てくる。目の下のクマでも隅っこのクマでもなく、動物のクマ、ヒグマやツキノワグマのクマである。

 クマの動画ばかり出てくるのは、私の視聴傾向をSNSなどが分析し、それに合わせているからのようだ。要は、私がクマの動画を繰り返し見ているから、次々といろいろなクマの動画が流れてくるのである。

 なぜクマの動画を頻繁に見ているのかというと、北海道の旭山動物園にいるエゾヒグマの子ども「すなすけ」が、やたらと可愛いからだ。

 今年の6月、道央の砂川市の公園で親グマとはぐれて衰弱していたところを保護され、旭山動物園に受け入れられた。そして8月の終わりごろ、砂川にちなんで「すなすけ」と名付けられた。

 私は、すなすけが命名される少し前にその存在を知り、旭山動物園の「エゾヒグマの子ども」の動画を初めて見た。そして、札幌に行ったときに旭山動物園まで足を伸ばさなかったことを猛烈に後悔した。

 ぬいぐるみのような3等身なのに、檻に手をかけて素早く天井付近まで上るなど運動神経がいい。木の実などを食べているとき、ときおり上目づかいでカメラを、つまり、飼育員を見る表情も、耳まで毛だらけなのも、とにかく可愛い。

 パンダを可愛いと思ったことのない私がそう感じるのは、おそらくギャップのせいだろう。どういうことかというと、だ。

 私は札幌西部の発寒というところで生まれ育った。今は手稲区新発寒という住所になっているところに生家がある。

 小学生のころ、手稲山には何度登ったか覚えていないほどだし、仲間と一緒に、ときにはひとりで、自転車で行けるところまで行き、渓流で魚釣りやザリガニ採りをした。

 当たり前のように、ヒグマの出没を警戒しながら遊んでいた(当時は学名でもある「エゾヒグマ」と呼んだことはなかったので、以下も「ヒグマ」で統一する)。

 学校で、あるいは、近所の大人や親戚が集まったときなどに、北海道の子どもは大人からヒグマの怖さを教え込まれる。

「立っているとき、ヒグマにパンチを食らったら、人間の胴体はそのままで、首から上だけ飛んで行く」

「人間よりずっと走るのが速く、自転車でも逃げ切れない」

「死んだふりをして食われた人間がたくさんいる」

 要は、出くわしたらお終い、なのである。

 実際、ヒグマに襲われて死者が出たニュースは珍しくなかった。

 だから、山に遊びに行くときは、鈴や、笛を持って行くことも多かった。

 長らく、私にとってヒグマというのはそういう生き物だったので、すなすけの丸っこい体や、白目のある幼い表情は衝撃的だった。

 もちろん、野性のヒグマは恐ろしいという認識は今も変わっていない。

 それだけに、今年の7月、牛を襲いつづけていたヒグマの「OSO18(オソ18)」が駆除されたことに対し、「かわいそうだ」と抗議する電話などが役場にあったことには驚きと怒りを覚えた。

 そのように偏った愛護の精神をふりかざす人間たちから攻撃される恐れがあるので、誰が駆除したかは公にできないという。

 動物を一切殺してはいけないと言う人たちは、肉や魚を食わないのだろうか。

 何度追い払っても、家畜を襲いにきて、人間にも危害を加える恐れのあるヒグマを駆除しないとしたら、どうしろというのか。

 おそらく彼らの多くは、ヒグマとツキノワグマの区別がつかないのだろう。同い年の両者が戦ったら、間違いなく秒殺でヒグマが勝つ。弱いほうのツキノワグマでさえ、最近は人を襲って怪我をさせたり、命を奪うニュースが多くなっている。

 彼らには、どうぞ自分でクマさんたちを守りに行ってください、と言いたい。

 野性のヒグマを恐ろしいと言いながら、すなすけを可愛いと言う私の考えは、理屈としては破綻しているのかもしれないが、エモーショナルな意味では、自分の感覚に正直なだけだと思っている。

 理屈で言えば、人間と生活圏が重なったときだけクマを駆除する、というのは、確かに都合がよすぎる。が、私は人間だから、人間を生かすべきだと思うし、人の命より大切なものを、私は知らない。

 駆除を攻撃する人たちは、人間がほかの生き物たちの生殺与奪の権を握っているのが気に食わないのか。

 馬の生殺与奪は人間次第という意味では、競馬も同じである。

 競馬というのは、人間の都合で馬という生き物の両親を決め、好むと好まざるとにかかわらず、全力で走らせ、種の保存に貢献しないとみなしたら「処分」する、という構造になっている。断っておくが、馬肉を食う文化のある日本だけがそうしているわけではなく、万国共通の仕組みである。

 長くなるのでこのくらいにしておくが、最後にひとつ。

 私は引退競走馬の保護活動をしている人をたくさん知っており、尊敬すべき知人も何人もいる。

 が、なかにはそうではない人もいて、クラウドファンディングなどで小金を稼ごうとする人間もいるようだ。そうした人間たちに共通しているのは、「馬を救う」という表現を用いることだ。

 先日、そうではない引退競走馬の保護団体の人が「救う」という言葉を使っているのを見て、がっかりした。

 そう表現するのは、肥育業に携わっている人たちを貶めることになり、失礼だ。また、それは、彼らが「救う」べき状況をつくった競馬関係者を非難しているに等しい。

 上から見ているから「救う」などと言ってしまうのか。

 思い出したら気分が悪くなった。すなすけの動画を見て、癒されよう。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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