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名編集者になってくれ

  • 2023年10月26日(木) 12時00分
 本稿がアップされるのと同じ10月26日、スポーツ誌「Number」の競馬特集号が発売となる。私は、タイトルホルダーのレポートとダイワスカーレットの振り返りもの、そして、秋古馬三冠についてのコラムという3本を寄稿した。

 担当したのは、2週間前にここで紹介した若手編集者のH君である。ダイワスカーレットの担当厩務員だった斉藤正敏さんの取材の最後に、H君は、「スカーレットが有馬記念を勝てば、牝馬としてはトウメイ以来37年ぶりとなることは前もってご存知でしたか」と質問した。また、横山和生騎手には「タイトルホルダーに関する記憶で一番印象に残っている瞬間は」と訊いていた。

 どちらも、私がひととおり質問を終え、何か追加の質問がないかとH君に振ったら出てきたものだった。両方ともとても美味しい答えが返ってきて、私としては助かった。それで私は、H君が集合時間に遅れてきたことを許した。

 彼が遅れてきたのは(といっても数分だし、前もってSNSで遅れそうだと連絡をくれていたのだが)、私の車で美浦トレセンに向かうときだった。彼は、助手席に座るなり「遅れてすみません。島田さん、コーヒーとラテ、どっちがいいですか」と飲み物を差し出した。「君ね、それを買わないで真っ直ぐ来れば遅れなかったんじゃないか」という言葉を私は呑み込み、「ありがとう」とラテを受け取った。一緒にいたカメラマンは、コーヒーもラテも苦手で飲めないというので、H君の気遣いは半分ムダに終わった。

 要領のいいやつなら、息を切らせて飛び込んできて、「あっ、飲み物何がいいですか、買ってきます」と、見えるところでダッシュをして、遅刻さえも得点稼ぎに利用しようとするのだろうが、そういうズルさのないところがいい。

 H君の質問のおかげで、斉藤さんのトウメイに対するコメントと、横山和生騎手がタイトルホルダーの背で見た景色に関する言葉を引き出せたわけだが、彼の性格からして、それとわかるようデスクに伝えてはいないだろう。デスクのTさん、その2点に関しては彼の手柄なので、褒めてやってください。

 これからもH君には、ネタになることをしてほしい。というのは、このコラムのためばかりでなく、「名編集者」と聞いて顔を思い浮かべる人のほとんどが、特に若いころ、何かしらネタになることをやらかしている人ばかりだからだ。

 26年前に上梓した『「武豊」の瞬間』の担当編集者だったE君は、その後、中途入社ながら文庫編集長となり、今はその上役となっている。彼は、若いころ、武騎手の取材のとき新幹線に乗り遅れ、私が取材場所で怒っていると、武騎手に「ぼくもこの前新幹線に乗り遅れたんです」と慰められていた。夜、編集部で待ち合わせたら、床に大の字になってイビキをかいていたこともあった。それがのちに、担当作の映画化などで会社に億単位の利益をもたらす名編集者になったのである。

 H君の会社の役員になったSさんは、酔って他社の編集者に「ピンポンダコができるまで地取り(じどり)をしなきゃダメだ」と延々と説教をしたり、階段から落ちて大怪我をしたりと、いろいろあった。

「石の上にも3年」と言われているように、H君も、入社3年目となる来年には少し余裕ができて、また違った世界が見えるようになっているだろう。その前に、今はインフルエンザで倒れているらしいので、早く元気になってほしい。

 ちょうど「Number」競馬特集号の見本が送られてきた。カッコいい。今、ダイワスカーレットのページをひらいている。斉藤さんの自宅の庭で撮影したポートレートの笑顔がとてもいい。

 斉藤さんは、58歳だった2002年に小野幸治厩舎から松田国英厩舎に移ってきた。松田厩舎では、金子真人オーナーの馬はこの人、谷水雄三オーナーの馬ならこの人、というように、馬主によって担当厩務員を決めるケースが多かったという。斉藤さんは、自身が移籍してきたころから松田厩舎に所有馬を預託するようになった、「ダイワ」の冠で知られる大城敬三オーナーの馬を担当するようになった。そして、最初に担当したダイワエルシエーロが2004年のオークスを優勝したという、腕と、運の持ち主なのである。

 優しい語り口で、かつての担当馬のことを楽しそうに話してくれた。この人といれば、カリカリしやすい牝馬も落ちついて、力を出せたのだろうな、と思った。

 このところ移動が多いので、パンと駅弁ばかり食べている。腹が減った。口の中を火傷するほど熱々のラーメンが食べたい。できれば、胸焼けするほどこってりした味噌チャーシューがいい。そこに味玉をトッピングしよう。では、出かけてきます。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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