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サントス元騎手に3度のスタンディング・オベーション

  • 2007年08月07日(火) 23時50分
 8月6日(月曜日)、アメリカ・ニューヨーク州サラトガで行われた、今年度新たに競馬殿堂入りを果たした人馬に対する伝達式で、最も大きな拍手と喝采を浴びたのが、式典を1週間後に控えた7月30日をもって騎手生活にピリオドを打ったばかりの、ホセ・サントス(46歳)だった。

 南米のチリで生まれたサントスが、祖国で騎手としてデビューしたのは、彼がまだ14歳の時だった。父が騎手で、7人兄弟のうち彼を含めて4人が騎手という競馬一家で育った彼にとって、馬に跨がる職業に就くのは、ごく自然な流れだったという。

 そのホセ・サントスが、初めてアメリカで騎乗したのは、彼が23歳になった1984年だった。より大きな成功を求めて祖国を離れる決意を固めたわけだが、実はこの時の彼は英語が全く話せず、所持していた全財産はわずか2000ドル足らずだったそうだ。まさに、自らの騎乗技術だけが頼りの移住であった。

 だが彼の達者な手綱捌きは、さほど時をかけずに関係者の間で周知されることになった。移住初年度を、ガルフストリーム、ハイアリア、コールダーといったフロリダ州のサーキットを巡って過ごすうちに、もっと高いレベルで乗るべきだと言ってくれた馬主や調教師が複数いて、翌85年にはニューヨーク地区に移動。そして移住3年目の1986年、サントスはマニラに騎乗してブリーダーズCターフに優勝。同時に、年間収得賞金が1132万ドルを越えた彼は、この年の全米リーディングジョッキー(賞金獲得部門)となった。その後1989年まで、サントスは4年連続で賞金王のタイトルを奪取。この間、1988年にはエクリプス賞騎手部門を受賞したから、北米移籍後の彼は絵に描いたようなトントン拍子の出世を果たしたと言えそうだ。

 以後今年の春まで20年以上にわたって、トップジョッキーとして活躍したサントス。単勝44倍という超大穴のヴォルポニーで制した02年のクラシックを含めて、ブリーダーズCに7勝。3歳3冠レースは、レモンドロップキッドで制した1999年のベルモントSが初制覇。その4年後の2003年、サントスはファニーサイドとのコンビで、ケンタッキーダービーとプリークネスSに優勝。サッカトガ・ステーブルという、ニューヨーク州北部に住むごく一般的な庶民10人で組織されたシンジケートが所有するファニーサイドとコンビを組んで達成した2冠は、サントスの騎手生活におけるハイライトとなった。

 通算4083勝、総収得賞金1億8725万ドルという偉大な実績を残したサントスが、現役生活にピリオドを打つきっかけとなったのは、怪我だった。今年2月1日、アケダクト競馬場で落馬事故に巻き込まれ、背骨が5箇所にわたって砕ける重傷を負ってしまったのである。復帰を目指して治療に努めたサントスだったが、もう一度強い衝撃を与えて脊髄を圧迫することになれば、80%の確率で車椅子生活になると医師から警告され、断腸の思いでステッキを置くことを決意して発表を行ったのが、7月末のことだった。

 伝達式で行ったスピーチの間に、3度も観衆のスタンディング・オベーションを浴びたホセ・サントス。卓越した技術をもっていただけでなく、人間性もすこぶる優れていた彼が受賞者だからこそ見ることが出来た、感動的な光景であった。

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1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

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