ひとが謎解きをしていく物語が捕物小説なら、競馬も、ひとが謎解きをする点は一緒と言える。ところが、こちらは解決しないことの方が多い。どのくらいの確率になるだろうか。ひとによって異なるのだが。
面白いもので、ちょっと調子がよかったりすると、たまたまだが、雄弁になるのだ。ベラベラしゃべりまくり、得意顔になって傍迷惑を省みずにだ。どれだけ周囲を不快にさせているか、気付く筈もない。
ところが、有頂天になったあとは、必ずといっていいほど不幸が訪れる。
いつまでもいい気にさせてくれないのが競馬で、そんなことは分かっているのに、この過ちは直らない。とどのつまりに、いいときぐらい言わせてよとなるのだ。
競馬の中に、こうした人生模様を見出すとき、博才の有る無しが、ひとの運命を左右していることが分かるようになる。
理屈を述べさせたら天下一品でも、よくよく考えてみたら、それがこじつけの理由を言い張っているだけで、終わってみたら空しさが残るだけ。正解への道すじは、自然と開けていくもののようで、そう導かれていくときの気分こそ大切にしなければならないのだ。
その瞬間の判断、それこそが決め手になっていて、機転が利くかどうかは、そのひとの持って生まれたもののように思える。もがいているときには、いいことはない。
博才の有る無しは、そうした気分に支配されていて、如何にしてこだわりなくいられるか。良き風を呼び込むかではないだろうか。
景気の悪い話、愚痴っぽい話ばかり繰り返しているものには、絶対に福は訪れないもののようだ。
昭和11年に菊池寛の書いた『競馬読本』には、こうしたことが見事に書かれている。競馬に対する心構えは、昔も今も変わりないということで、せめて気持ちのゆとりを失わずにいたいものだ。
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