自分がいま誰の懐の中にいるのか、ふとそう思ったとき、突然手荒く引き出され、あっという間に自動販売機に差し込まれていた。
そこには仲間たちがたくさんいた。この先どこに行く運命なのか。みんな不安気だ。ただ狭いところでじっとしているだけ。こんな日々を繰り返して、もうかなりになる。
こういう私は、千円紙幣。思えば、はじめて東京の大きな銀行からある人に手渡されたときは、希望に胸がふくらんでいたものだった。その人の晴れがましい顔、目の輝きを見たときのことが、いまでも頭からはなれない。それが、人の手から手へ、ふたつに折られたり、四つに畳まれたりして財布に入れられたり、ポケットに押し込まれたりされているうちにすっかり古ぼけた姿に変わり果ててしまったのだ。そして、いまここに。とても騒がしいところで、とにかくじっとしてはいられない。さっきここに来たのに、もう別の人のポケットの中に。そして、また自動販売機に入れられといった具合なのだ。大きな歓声があってしばらくすると、仲間たちのいるところにひとまとめにされて、それから、また別の場所にと。ここに来てからはじっとすることが少ないのだ。
さて、この千円紙幣はどこに来ているのか、そう競馬場のスタンドの中。私たちは、レースに夢中になっているから、一枚のお札がどう運ばれているかなんて、到底考える筈もない。無造作につかんでは馬券売場に持って行くだけ。手放すときにも特に決別の情がわいてくるわけでもなく、どうということもない。もしかしたら、さっき手放したお札が戻ってくるかもしれないなんていうことも、まるで頭の中にない。それが普通だし、当り前なのだ。さて、その普通が当り前でないのが競馬だということは周知のこと。そうであるならば、どうしたら、普通で当り前でない考えが浮ぶかについて深く追求するのも一興ではないか。一枚のお札をきっかけにしては。
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