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消し去った馬を今一度

  • 2009年06月17日(水) 18時00分
 こんな話がある。答えより質問の方がはるかに大きく見えるのだが、それは、質問は必ず答えをかくまっているからで、その分だけ大きく見えているのだと。

 確かにそんな風に感じられるし、なかなか面白い指摘だと思う。質問が答えをかくまっていると言うなら、競馬の検討にだってそれは言えそうだ。答えを見つけられず苦しむのが競馬の検討だが、実は、考えるその対象の中に答えがあるのに、それに気がついていないのだ。答えをかくまっていると言えば、同じ駄目であっても、ちょっと気分は違う。とにかくかくまっているのだから、まだいいではないかと、ちょっとゆとりさえ覚える。

 もうひとつ、こんな言い分がある。記述の場合、書き記された文字以上に、消された文字の方が、もしかしたら人の心を打ったかもしれないというのだ。もし、消されずに残されていたならと考え直すこと、本当に生活していく上で、よくある。

 競馬だって、この未練は山ほどある。もしそうだったらと、とにかく女々しいのだ。この場合は、消し去ってしまった馬たちのことだが、終わってしまってからいくら呼び戻そうとしても後の祭り。

 そこでこんな風に考えてみたい。消された詩句をもしかしたらと思うように、消し去った馬たちを呼び起こしてみるのだ。あの馬この馬、いったん消したものたちだけを書き出してみる。そこには、願って止まない貴重な馬たちがいるかもしれないのだ。いや、確率から言ったら、こっちの方が正解かもしれない。快感、ここにありなのだ。

 答えとなる馬たちをかくまっているのだと考え直し、行動に移す前に一度は消し去った馬を呼び戻してみる、真実とは、案外こんなところにあるのではないか。

 要は、競馬と馬たちと、どんな対話を持つかということで、つき合い上手に快感ありということではないだろうか。

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ラジオたんぱアナウンサー時代は、日本ダービーの実況を16年間担当。また、プロ野球実況中継などスポーツアナとして従事。熱狂的な阪神タイガースファンとしても知られる。

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