かつて、競馬を愛し競馬に関する著述で若者の心をつかんだ詩人寺山修司は、多くの言葉を残した。その中で、競馬と人生を結びつけたくだりは、ある種のバイブル的存在になっていると言っていいだろう。その影響を受け競馬を業とした人がこのサークルには沢山いた。
「誰か故郷を想はざる」で書かれた“人生には答えは無数にある。しかし、質問はたった一度しか出来ない”という言葉と、「馬敗れて草原あり」の中で述べている“競馬は人生の比喩だとは思っていない。その逆に、人生が競馬の比喩だと思っているのである”という言葉が、いつまでも頭からはなれずにいる。この人生の警句をどうとらえるか。
別に“人生はたかが1レースの競馬だという気がするのだ”とも述べ、この考え方が実は曲者なのだとも言っていた。
今ではあまり耳にしなくなったが、中山競馬場から西船橋に向かう裏道があって、すっからかんになったファンがバスに乗らずに歩いて帰るので“オケラ街道”と呼んでいた。
寺山はこれを人生になぞらえ、それぞれにこのオケラ街道があると警告している。たかが1レースの競馬をどうとらえるか、甘く見ているとオケラ街道を歩くしかなくなる。これぐらいの散財ならいいかなと思っていると、幸運なぞ訪れずにきっちり全てを無にしてしまうのだ。
1レースぐらいならどうでもいい、それでももしかしたらなんとかなるかもしれないと淡い夢を抱いても、どうにもなるものでもない。だから、たかが1レースとどう向き合うかなのだ。人生のオケラ街道を歩きたくないと思えば、この1レースこそはという緊張感を覚えるではないか。確かに競馬は楽しむべきものでも、突き詰めると結果如何だ。そうでなくても、せめて途中経過をどう充実させるかだろう。人生が競馬の比喩だというのはそういうことなのだと寺山は言っている。先人の言葉に耳を傾けよう。