環境や境涯によってこの世の中は生きにくく、そう感じることは多い。自分がひとかどの存在になっていればともかくも、そうでないのが普通だから、何かするにも心おきなくとはいかない。誰かの世話になれば、立ち居ふるまいが遠慮がちになり、気が疲れるというのが相場。また、力あるものの中には貪欲なものが多いので、そのために困らされることだってある。では、誰にも頼らずにと思うのだが、ひとりでいると周囲からは軽んじられて相手にされなくなり、その気まずさに堪えなければならない。
さまざまの欲望を叶えてくれる豊かさ、誰だってほしい。では、財宝を持ったらどうなるか。それを失うまいと浅はかな行状に及ぶのを見せられると、あまり愉快ではない。
世の中を生きぬくには、どうしたって苦の種は尽きず、どうしたら心を落ち着かせることができるか。まあ、突き詰めないのが一番というところのようだ。
その点、競馬には救いがある。ひとかどの存在であろうとなかろうと、どう考えようが勝手だからだ。誰にも、その答えに確信を持てる筈もなく、それを声高に主張して譲らない態度ほど滑稽なものはない。こうでなければならないという領域は存在しないから、ここには精神の自由がある。
競馬で他人を頼みにすれば、結局はその人間の所有物みたいになってしまうから、それは避ける。普通はみんなそうする。競馬という世の中に順応しなくてもいいのだから、気まま、勝手な振る舞いでいい。こんな楽しいことはない筈だ。気兼ねしなくていいのだから心の自由がここにはあり、競馬場に行ったら、ひとときの安らぎを楽しめるというものだ。ただ、散財しすぎないこと、心をうまくコントロールする術は身につけたい。そのときどきに動揺していたのでは、なんのためのひとときなのか分からなくなる。古に記された方丈記の世界が、ここでは生きている。