この心というものは、なにかに触発されて動くもののようで、例えば、楽器を手にすると音を立ててみようという気になるようなものではないか。差しずめ競馬なら、予想紙を手にすれば、直ちに勝馬検討を始めるようなものだろう。
だからと言うのではないが、なにかに好奇心を抱く気力が萎えていたら、とにかくそこいらにあるものを手に取ってみるというのもいいのではないかと思う。たまたま手に触れたものが高尚なものであったとする。その後の展開がどうなるか、楽しみではないか。もちろん、手に触れるのでなく、目に触れるのでもいい。文章なんかがそうである。むしろこっちの方が手軽かもしれない。いいものには考え方のヒントが潜んでいる。心がその気になってくれたら、それこそシメタではないか。そこで、心にブレーキを掛ける思いが湧き上がることがある。どうせ直ぐ忘れてしまうのだからと、この心を引っ張るのだ。
こういうときに気持ちを前向きに持って行ける言葉や考え方を用意しておいたらどうだろう。覚える先から忘れてしまうという思い込みを払拭する考え方、そんなもののひとつに次の言葉を紹介しておきたい。
知らないという事と忘れたという事は違う。忘れるには学ばなければならない。忘れた後にこそ本当の学問の効果が残るという、内田百間の言葉だ。覚えたことを忘れまいとする根性は賤しいとまで述べている。だから、忘れることなんか気にしないで、ただ覚えようとすればいいのだ。いったん覚え、そして忘れても、それはこの心に必ず効いているのだから、いつかなにかのかたちで正体をあらわすことがあるというのだ。
なにかを覚え、それが直ぐなにかに役に立つと考えるのは堕落の第一歩だとも、百間は述べている。どうだろう、競馬にても然りではないか。積み重ねていくこと、そうすることで、競馬の教養が漂う人になれる。