こんなに誰もの自己主張が強くって、どうして穏やかになれるものか。これは、あの「吾輩は猫である」に書かれてある一文だ。
文明が進むに従って殺伐の気がなくなり、個人と個人の交際が穏やかになるという言い分に、大間違いさと反論してこう述べているのだが、日本の近代化の夜明けを迎えるときの言葉なのだから、感慨深いものがある。
私どもは、今、漱石が示唆した通りの世情の中に生きている。ものが言える自由を意識せずに、言いたいことは何でも言っている。
時折、慎ましい心は踏みつけられることさへある。穏やかにいたいと思ったら、他との交わりを避けて一人でいるしかない。和気あいあいの場、仲間がみつかれば幸運。ひたすらそれを守り続けようとするのだ。そんなだから多くは他を避けて閉じこもり、自ら動こうとしない。
競馬は、考えようによっては、こうした世情の受け皿のひとつとも言える。掛け替えのない大切な受け皿のひとつなのだ。
競馬における自己主張、ファンならそれはレースに出てくる馬なり騎手なりを応援することであり、その究極が馬券だ。自らの懐を注ぎ込んで自己主張するのだから、いくら強く叫んだところで咎められる謂われはない。
どうだろう、競馬の話に限って、普段よりずっと自己主張をする人間が近くにいるのではないだろうか。ひとつでもこういう場があれば、少しは穏やかな自分を意識できるかもしれない。それが馬券であれば、いっそうはっきりしてくる。ものが言える自由を意識していないとしても、自己責任の範囲内のことだから許されるのだ。一定のルールがそこには見えているようなものだ。それが激しいと多少殺伐とはする。だが、一歩その場から離れてしまえば、穏やかな、よき仲間という意識が残る。こうしたひとときが有ると無いとでは、日々の潤いが違ってくる。
とにかく、努めて穏やかに暮らしたい。