こんなことを考えてみた。人それぞれの抱く感情は、実は人づてに伝わっていき、それがいくつもいくつも重なり合って社会は作られているのだと。自分から誰かへ、その誰かから別の誰かへと伝わり、伝え伝わっていったものが誰かから自分へと。いかにもありそうではないか。
これが情報ならば、分かりやすい。身近なところでは、競馬。こんな話があったと誰かが教えてくれる。その話を、親しい誰かに言う。そうかといって、また誰かに伝える。競馬は、他のことよりずっと限られた社会だから、センセーショナルであればあるほど、その情報の伝達は早い。ちょっとしたひと言があっという間に広がっていく。気がついたらスタンドのある個所がすっかり汚染されてしまったということもありそうだ。
競馬場で人に会うと、よく、なにかいい情報はないかと聞かれる。そのとき発信するひと言が、どんな風に伝染していくかを考えると、迂闊に話はできない。また、個人の見解が情報に変貌することだってありそうだ。耳にしたことをひとつの情報として発信する、よくあることだ。
こんな風に考えていくと、競馬における情報をどう取り扱うか、自ら見えてくるではないか。話す方も聞く方も、どんなフィルターをかけたらいいか、その人の見識が問われるのだ。これはとても大切なことで、競馬の風土に影響することでもある。
競馬への思いであれなんであれ、どう発信するかがどんなに重要なことか、伝える立場にいる自分にとり、片時も忘れてはならないことなのだ。
たかが競馬でも、されど競馬であり、ここで培われたものが、もしかしたら社会を形成する力になっていくかもしれない。だから、どんな感情を社会に投げかけるか、人づてに伝えられてもかまわない感情を、この競馬で培うようにしていきたいと、結論づけておく。