不完全燃焼、この無念は、結構引きずるものだ。事にあたるとき、そうならないように心するのだが、ちょっとした気の緩みからよく失敗する。すべてを活かし切る、時間の活用、情報の活用など、どうしたらすべてを活かせるか、そこには工夫の余地がいつもあるように思える。
ただ、この心境に至るには、きちんとした心構えがなくてはならないようだ。かなり以前から、打つ手は無限にあるではないかと、自分を励ますようにはしてきたつもりだ。やや無謀と思えても、何でも可能なのだと心に決めれば、まず諦めるようなことはしない。難問を突きつけられたら、対策を立てればいいではないかと、この身を鼓舞する。つまりは楽観的なのである。何でも可能、打つ手は無限、こう念じていれば、不完全燃焼で無念の思いを引きずることも少なくなるのではないか。しかし、ここまで来るには、随分と長い道程だった。
目の当たりにする競馬は、自ら手を下す訳にはいかず、すべてが人馬まかせだから、ただ覚悟を決めて見るしかない。結果に思い当たらなかったという無念さはあっても、直ちに受け入れて得心しないことには、次には進めない。これは、競馬に参加するすべての人間の気持ちなのだ。もちろん、快哉の瞬間を味わうこともある。だが、これはほんの瞬間にすぎないというのが普通なのだ。
さて、ここで思うのだが、競馬をする立場のなんて大変なことかと。多くの人間の思惑を背負って走るのだから。気にしたら切りがない。自身の不完全燃焼無きように最善を尽くすしかないのだ。それを、競馬に参加した者は見ている。それも、かなり執拗にだ。納得させるのは並大抵でないだろう。
こうした状況にあるのが競馬だから、互いに無念の思いを引きずることが少ないようにするには、打つ手は無限を演じてくれることだろう。果敢なプレイ、それこそが命なのだ。