判官びいきというのは、われわれ日本人特有のものなのだろうか。それは、強い情なくしては考えられない。そして、その情が肩を持つという行為になり、今流の言い方をすれば、強力なサポーターになっていく。だから、判官びいきは、あらゆるスポーツイベントにとり、大きなエネルギーになっているはずと考えられる。
その本来の意味は、不幸、不運を背負った不遇な者に同情することだが、ただ不遇というのではなく、実は、かなり実力もある者でないと成り立たないのではないかと思う。
人はどこに心を惹かれるか、というよりも自分は何故それを応援するかを突きつめていけば、はっきりする。もちろん、強いからこそ、勝つ続けるからこそ心を奪われるのであり、情が生まれる。そうでないと肩を持とうなどとは考えられないだろう。だから、スポーツイベントが盛り上がるには、ヒーローなりヒロインが登場しなければならない。
競馬にも全く同じことが言える。今は、とにかくウオッカだ。ウオッカの人気は、ある時は判官びいきを思わせる。勝っても負けてもウオッカなのだから、そう言っていいだろう。予想のプロがどんなに評価を下げても、サポーターは意に介さずにウオッカを指名する。この秋、敗戦をくり返したことで、判官びいきはエスカレートしたように見えたが、ウオッカの場合は、何といってもダービーの勝利がすべてだった。64年ぶりの牝馬による制覇、この大偉業は凄かった。以後、牡馬に伍して戦い続け、秋の天皇賞で同じ牝馬ダイワスカーレットに大接戦の末に勝ったことで存在は不動になり、GIレースの勝利を積み重ねていくウオッカは、年を重ねる毎に強くもなっていくようで、この間のジャパンCの圧勝劇で頂点に達した。誰が乗っても勝つときは勝つ、パートナーを選ばないその勝利は、誰のものでもない、ウオッカの肩を持つ多くの人のものになっている。