わずか一行の近況報告、そう、年賀状のこと。この年末の大仕事にいつ取りかかるか、なかなか腰が上がらない。受け取る方は、わずか一行でも、その人の今を察しようとするものだ。何度も読み返すときだってある。ならば、同じ書くならあと一行をつけ加えられないものか、そう思えるのが年賀状でもある。それもこれも、今の自分があるのが、多くの人間との出会い、めぐり合わせによるからだ。そうした中には、遠い過去にめぐり合った者もいて、年を重ねた今、年に一度の便りでその縁をつないでいることが多い。
めぐり合わせ、仏教でいう「ご縁」、これがあって今の自分があることを思えば、とにかく大切にしていかなければと思う。その絆となるのが言葉であり、文字なのだ。この気持ちを心のこもった言葉、文字に託す意味がどれほど大きいか。だからこそ、あと一行があってもいいと思える。
一頭の馬とのめぐり合いだって、考えてみれば大きい。どういういきさつでその馬と出会うことができたのか。レースだったのかそれとも。さらには、何が一番心に残ったのかなど、思いは人によって様々であっても、一度、出会いを感じた馬は、一生忘れることはない。なにかの折、その馬の話に及ぶと、それこそ、堰を切ったように言葉が出てくるものだ。そして、人それぞれに自分だけの縁を感じる馬がいる。さらに言えば、みんながひそかに、それぞれの馬のその後について知りたいと思っているのだ。
競馬は、そんな馬を思う人たちによって成り立っており、一頭の馬とのめぐり合いが数多く集まって、成り立っているとも言える。
競馬と人との絆は、一頭の馬との絆が広く集まったものであるから、何が大切と言って、基本はあくまでも馬なのだ。どれだけ一頭の馬について言葉を駆使して語り伝えるか、言葉に託したあと一行の精神は、競馬を支える大きな力になっている。心したい。