何事にも有頂天になりやすいもので、つくづく単純な自分に呆れることがある。もっともこの類の仲間は多いほど楽しく、何を言おう、有頂天こそ現世の喜びということではないのか。そして、この喜びをもとめて止まない最たるもの、それが競馬なのだと、競馬好きは信じて疑わない。
その競馬のどこに喜びを感じるのか、それは様々だ。だが、全てを飲み込むほどのインパクトのあるもの、それはレースそのものではないだろうか。
なんという鮮やかな結末、胸のすくような快感、これに優るものはなく、その場面に遭遇すれば、誰だって気持は弾む。どう実感するか、どうゆう状況でその場にいるかも大きいのだが、レースを実況する側の気持を想像していただきたい。
なんとか気分よく受け取ってもらいたいと思い、予めことばを用意することがあるのだが、まずこのケースでしっくりいったことはない。とにかく、レースは生きもの、何が起きるか分からない。例え想定した場面に近い結末があっても、用意したことばでは伝え切れないのだ。しびれる程の喜びを実感してこそその場にふさわしい伝え方ができる。つまり、有頂天になってこそなのだ。
こういう場面は、そうはやって来ない。ディープインパクトのようにスタート前から期待の大きいものが、その期待どおりにやはりというケースは、たまにはある。だが、正にいま眼前にその場面がというのはそんなにない。中山記念のヴィクトワールピサは、そんな稀なケースのひとつだった。勝てるという期待はあの人気から万人の気持ではあったが、あの勝ち方は、胸のすくような快感を与えてくれた。しびれる程の喜び、有頂天にさせてくれた。こういう気分でレースをしゃべれる喜び、これは間違いなくその場にいた多くの方の気持でもあったと思う。スター誕生の瞬間を共有できた喜びは大きい。