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相馬野馬追と競馬

  • 2011年07月30日(土) 12時00分
「そこから下がれ! 大殿(おおとの)がご覧になれぬではないか」

 鬼の形相となった武者が声を上げると、その場の空気がピンと張りつめた。

「大殿」と呼ばれた人物はスーツ姿で椅子に腰掛け、静かに前を見つめている。視線の先には、自らの嫡男で、名代として相馬野馬追の総大将をつとめる旧相馬藩第34代藩主・相馬行胤(みちたね)公が甲冑をまとい、出陣を迎えようとしている――。

旧相馬藩第33代藩主・相馬和胤公と南相馬市桜井勝延市長旧相馬藩第33代藩主・相馬和胤公(左)と南相馬市桜井勝延市長

 大飢饉のときも戦時中も途切れることなく千年以上の長きにわたって催されてきた伝統の「相馬野馬追」。今年は東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故のため開催が危ぶまれていたが、呼び物の甲冑競馬や神旗争奪戦などを中止し、例年500頭ほどが集まる騎馬武者行列を80〜90頭で行う縮小開催という形で、7月23日(土)から25日(月)まで行われた。

 舞台となるのは旧相馬藩の領地。現在の行政区で言うと相馬市と南相馬市である。

 そこを統治してきたのが、平将門から連なると言われている相馬氏で、冒頭に登場した「大殿」こと相馬和胤公は33代目の藩主にあたる。夫人は麻生太郎元総理の妹で、その妹は寛仁親王妃という良家同士が結ばれ、総大将の相馬行胤公が誕生したわけだ。麻生太郎氏は吉田茂の孫として知られているが、父方をさかのぼると、明治天皇の下命を受け、「日本競馬の父」安田伊左衛門らとともに日本の近代競馬の基礎づくりに尽力した子爵、加納久宜の名が見える。

相馬中村神社に入る相馬行胤総大将大勢の侍たちと観衆に迎えられ、相馬中村神社に入る相馬行胤総大将(写真中央)

 相馬野馬追に出る馬は、20?ほどの甲冑のほか、鉄製の鐙や豪華な鞍など100?を超える「酷量」を背負うので、そのほとんどが牡馬である。それゆえ、現役を退いた牡の元競走馬の大きな受け皿になっている……というのが、国指定の重要無形民俗文化財でもある相馬野馬追と競馬との第一の接点だが、このように、藩主の血筋においても、野馬追と競馬とは古くから結びついていたのだ。

 さらにもうひとつ、両者には驚くべきつながりがあることがわかった。
「大殿」こと相馬和胤公は、かつて旧門別町でサラブレッドを生産していた柏台牧場を経営していた。代表的な生産馬に、1988年の菊花賞、89年秋の天皇賞、90年春の天皇賞などを勝ったスーパークリークがいる。

 武豊騎手が手綱をとり、オグリキャップ、イナリワンとともに三強と呼ばれた、最強ステイヤーである。そう、大殿は、あのスーパークリークの生産者なのだ。

 88年の菊花賞優勝は、デビュー2年目の武騎手にとって初のGI制覇であり、またJRA史上最年少のクラシック制覇(19歳8カ月)でもあった。当時、年収1億円を超えるスポーツ選手は落合博満現中日監督などごく少数だった。それだけに、あどけなさの残る19歳の少年が億を稼ぐという事実だけでも衝撃的で、「しなやかな天才・武豊」への世間の注目度は一気に高まり、ヒートアップする競馬ブームの牽引役となった。

 武騎手は、今年の相馬野馬追開幕の10日ほど前に南相馬を訪問し、桜井勝延市長と対談したり、避難所となっている小学校を慰問するなどした。あの訪問は、武騎手にとって、いわば「原点回帰」の旅だった、ということになる。

 相馬野馬追と競馬との間に、こうも強いつながりがあることにあらためて驚かされたと同時に、

 ――これほど大切な馬事文化について、なぜ今まで何も知らずにいたのだろう。

 と恥じるような気持ちにもなった。

 そうした思いと、認識不足のため武騎手と桜井市長の対談のとき、大殿とスーパークリークついて話題にしなかったことを司会者として悔いる気持ちを抱え、私は7月22日(金)の安全祈願祭から25日(月)の上げ野馬神事まで、3泊4日で取材した。

 今年の野馬追は「東日本大震災復興 相馬三社野馬追」として行われた。「三社」というのは相馬市の相馬中村神社、南相馬市の相馬太田神社と相馬小高神社のこと。相馬野馬追は、これら3つの神社と、5つの「郷(ごう)」という騎馬武者集団による祭り、と解釈していい。5つの郷は、中村神社から出陣する「宇多郷」、南相馬市鹿島区に本陣を構える「北郷」、太田神社に拠点を置く「中の郷」、小高神社の「小高郷」、そして双葉郡の侍たちが集まる「標葉(しねは)郷」である。

 郷は、いわば「中隊」のようなもので、それぞれの郷に騎馬会長がいる。5つの郷は共通して大殿や総大将を頂点に仰いでいるのだが、郷が異なる侍同士の交流はあまりないようだ。

総大将が騎乗する元競走馬総大将が騎乗するのは重賞を3勝した元競走馬

 総大将は宇多郷勢の長でもあり、騎乗する馬は中村神社の境内にある厩舎にいる。

 その馬の名はマイネルアムンゼン。美浦・田中清隆厩舎に所属し、2003、04年のエプソムカップ、04年の新潟大賞典など重賞を3勝し、引退レースとなった05年の新潟大賞典では南相馬市出身の木幡初広騎手が騎乗(9着)した馬である。現在12歳のせん馬。南相馬市小高区で繋養されていたのだが、震災と原発事故のためそこから避難してきた「被災馬」だという。

(つづく)

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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