今年の相馬野馬追は、7月23日(土)から25日(月)まで「東日本大震災復興 相馬三社野馬追」として、震災による犠牲者の鎮魂と相双地区の復興への願いをこめて開催されることになった。
それに先立ち、7月22日(金)の午後1時半から、相馬中村神社で総大将出陣の宴が行われた。相馬中村神社は、旧相馬藩を治めてきた相馬氏の居城だった中村城址にあり、翌23日の出陣式などもここで行われる。
正午を過ぎると騎馬武者姿の侍たちが次々とクルマで現れ、早足に参道を歩いていく。2頭が対になった御神馬像の脇には黒地に日の丸を染め抜いた「相馬の国旗」が風になびき、家族や友人と記念撮影をしている人たちや、カメラを手にしたメディア関係者の姿も見える。多くの人々が心待ちにしていた伝統の祭りが、まもなく始まろうとしている。
相馬の国旗がたなびき、人々の訪れを待っている。「総大将が見えますので、道をあけてください!」
胸に喪章をつけた侍たちが参道脇にずらりと並び、その間を総大将付軍者を先頭にした侍たち歩いてくる。
旧相馬藩第34代藩主・相馬行胤総大将の姿が見えると、観衆から、
「ほら来たよ」「あ、若殿だ」
と弾んだ声が上がる。
社殿での神事を終えた侍たちが、境内の広場に集合した。陣幕の前には総大将をはじめ、弟の相馬陽胤公、相馬中村神社の田代誠信宮司、長女の田代麻紗美禰宜(ねぎ)、相馬野馬追執行委員会副委員長をつとめる立谷秀清相馬市長らが並んでいる。田代麻紗美禰宜のご主人は、文仁親王妃紀子さまの弟で獣医師の川嶋舟氏という、こちらも相馬氏同様、良家同士が結びついた。
右端が田代麻紗美禰宜、ひとり置いた左が相馬行胤総大将。 この日から祭りが終わるまで毎日、侍たちも来賓も観衆も、東の海のほうを向き、津波で亡くなった人々のために黙祷した。
合戦の合図となる陣螺(じんらい、法螺の音)は勇ましいものだが、このとき吹き鳴らされた慰霊の礼螺(れいがい)は、静かに、深く私たちの胸に響いた。
ほどなくして、相馬外天会による相馬中村藩古式砲術の実演が行われ、火縄銃の銃声が響くたびに大きな歓声が上がった。そして、相馬高校の生徒たちによる相馬太鼓の演技のあと、「国歌斉唱」とアナウンスがあった。ひとりの侍が歩み出て歌いだした。
「相馬流れ山 習いたかござれ
五月中の申 お野馬追い♪」
旧相馬藩の「国歌」は「君が代」ではなく、この「相馬流れ山」である。
「国歌」としてこの調べを聴き、甲冑をまとった侍たちの姿を見ているだけで、私はこの地が好きになった。
古式砲術の実演ではドーンと大きな音が境内を揺らした。
相馬高校の女子生徒たちによる相馬太鼓は華やかで勇ましい。「千年つづいてきたこの相馬野馬追を、千年先までつづくようにしたい」
総大将がそう話したのにつづき、立谷市長らが挨拶した。
侍たちは、話しはじめるとき必ず「一言(いちごん)ご挨拶申し上げます」と言い、最後に「以上!」と締めくくる。みな例外なく話が短いのは、「これから出陣する」という状況だからであろう。
鎮魂を願うための祭りだからといって、悲しく、重々しいだけではない。「ただちに行って参れ!」「承知!」といった侍たちの言葉や動きは小気味よく、祭りならではの活気や、心浮き立つ華やかさが存分に感じられる。こうしてこそ本当の鎮魂になるのだろう、と思わされた。
総大将出陣の宴が終わった夕刻、私はここ相馬中村神社の境内にある厩舎を訪ねた。ふた棟にわかれた厩舎で、9頭の被災馬を含む20頭ほどが繋養されている。
「馬とあゆむSOMA」のメンバーに大切にされている
元競走馬のマイネルアムンゼン(せん12)。 写真のマイネルアムンゼンのほか、2001年の帝王賞などを勝ったマキバスナイパー(牡16)、エイシンクリバーン(牡15)、タイキレーザー(牡8)、アシヤビート(牡24)といった元競走馬の被災馬がいる。
ここにいる馬たちがたくさんの人の手をかけられ、大切にされていることが、上の写真の様子からもおわかりいただけるはずだ。
この厩舎を運営するのはNPO法人「馬とあゆむSOMA」。代表は相馬行胤さんで、中心メンバーのひとりに前出の田代麻紗美さんがおり、神奈川県川崎市幸区小向にある川崎競馬場の厩舎で生まれ育った中野美夏さんが広報担当をつとめている。
「被災した馬たちがここに来たばかりのころは精神的にピリピリして警戒心が強くなり、馬体も寂しくなっていました。今はご覧のとおり元気です。私たちとしては、『助かってくれてありがとう』と馬に言いたい気持ちです」
と中野さんは微笑む。彼女もかつて相馬野馬追に参加し、神旗争奪戦に出場したこともあるという。
ここにいる馬たちは、境内で行われる七五三撮影会で子供たちと写真におさまったり、保育園や養護学校に出張するなどして人々と触れ合い、さらに今年の相馬野馬追の騎馬武者行列にも参加するなど、大切な「役割」を与えられている。
競走馬としての「馬生」を終えたあとも、こうした「役割」をしっかり持って人間と共生するモデルケースが、ここにある。個人的な話をさせてもらうと、私は震災を機に、自分たちの「役割」について考えることが多くなった。それまでは、「昨日までの自分よりいい文章が書けるようになっていればいい」といった考え方をしており、社会における自分のポジションとか、自分が書くことによって周囲にどんな影響を与えるか――といったことに関してはあまり考えなかった、というか、あえて無頓着であろうとしていた。
それが震災と原発事故による被災地の現状を目の当たりにし、今の自分にできること、つまり自分の「役割」について、急にあれこれ考えるようになった。武豊騎手のように、そこにいるだけでと人々にエネルギーを与えることができる人は、こういうときこそ「スターだけが持つ力」を使うことが「役割」であろう。私の「役割」は、そうした場をつくったり、そこで力を分け合った人々の姿を伝えることではないか、と。
「役割」というのは、互いに支え合う他者がいることを前提とした、考えようによっては非常に温かい語感の言葉である。
与えられた役割を、今年の特別な野馬追で一生懸命果たそうとする馬たちと、この地に根付いた馬事文化を大切にしている人々の様子を、次回以降も伝えたい。なお、「相馬行胤公」「相馬行胤さん」といった敬称などの表記はその都度変えるようにしているので違和感があるかもしれないが、ご了承いただきたい。(つづく)