25日の午前中は、地方競馬関係者やファンにとって衝撃的なニュースが駆け巡った。
「荒尾競馬、本年度で廃止」というもの。
地元日刊紙や九州のスポーツ紙の朝刊が「競馬組合を管理する市が本年度限りで廃止する方針を固めたことが24日、分かった」などとして伝え、昼頃には全国紙のWebサイトでも後追い記事が掲載された。
ところが午後になって、「まだ存続か廃止か決めているわけではない。荒尾競馬を存続できるかどうかいろいろな角度からよく考える必要がある」と、市長が廃止報道を否定するニュースがNHKなどで伝えられた。
では、廃止という話はどこから出てきたのか。荒尾競馬の関係者に対して25日の午後に今後についての説明を行うという招集がかかったというから、そうしたところから廃止報道が出てきたのかもしれない。それにしても「方針を固めたことが24日、分かった」という記述は、いかにもどこかからリークがあって、それが記者クラブを駆け巡ったという雰囲気がありありだ。
荒尾競馬が今後どうなるかは気になるところだが、ここでは競馬場廃止についての一般論を述べることにする。
ぼくは競馬場がなくなることについて、頭から反対するものではない。たしかに、数十年の永きに渡って続いてきた競馬場がなくなるのは、単純に寂しいし残念だとも思う。しかし、今後10年、20年、30年先の競馬を考えたときに、今のまま続いていくとはとても思えないからだ。
日本の軽種馬(アラブ種も含む)の生産頭数は、初めて1万頭を超えた74年以降しばらく横ばいが続き、ピークとなったバブル期の92年には12,874頭にもなった。以来、年を追うごとに減り続け、昨年は7,122頭にまで減少。今年の数字はまだ発表されていないが、7000頭を割ることは確実であろう。仮に7000頭とすると、ピーク時の54.4%でしかない。
調教技術や施設、医療などの進歩によって、競走馬の寿命がかつてより長くなったとはいえ、これだけ生産される競走馬の頭数が減れば、同じ規模での競馬が続けられないことは明らかだろう。
頭数は減り続けているものの、05年3月の宇都宮を最後に競馬を廃止する主催者はなく(北海道やばんえいのように、競馬場がなくなっても主催者が存続しているものは除く)、当然のことながら競走馬の層は薄くなるばかりだ。
いわゆるマル外として海外から競走馬も輸入されているが、「日本の競馬は日本の馬で」を錦の御旗として日本の競馬が発展してきたことを考えると、今後も急激に外国産馬が増えるということはないだろう。
パイ(頭数)が減っているのに、器(競馬場)が同じだけ存在したのでは、全体的にレベルが低下していくか、立ちゆかない競馬場が出てくるのは避けられない。
以前にもどこかで書いたことがあるのだが、廃止か存続か、0(ゼロ)か1かではなく、1と1で1.5くらいにすることはできないものだろうか。つまり、廃止か存続かではなく、再編という選択肢はないものか。
たとえば荒尾の例をとれば、今、荒尾を仮に0にしてしまえば、いずれその影響は佐賀にも及んで佐賀も0になりかねない。そうなる前に、荒尾の1と佐賀の1を足して1.5くらいの規模に再編するのだ。
これは競走馬だけの問題ではない。今の日本の競馬のシステムでは、ある競馬場を廃止してしまえば、そこに所属していた優秀な人材(騎手や調教師)まで失われてしまうことになる。これでは日本の競馬全体のレベルまで低下してしまう。1を0にする前に、1と1で1.5になるようなシステムができれば、優秀な人材も残っていく余地ができるはずだ。
立ちゆかなくなった競馬場を順次廃止していくのでは、ピラミッドの底辺が狭くなれば、それに比例して頂点も低くなってしまう。たとえピラミッドの底辺が狭くなっても、頂点をできるだけ高いままに保つためには、そうした再編が必要だと思う。