相馬野馬追がハネたあと、私は、本来なら甲冑競馬と神旗争奪戦が行われるはずだった雲雀が原祭場地を訪ねた。馬も人もおらず、寂しげな様子をカメラにおさめるためだ。
一周1000メートルほどのコースを本陣山の観客席から眺め、それから向正面の外側にある駐車場に移動した。
すると、そこにひとりの騎馬武者姿の男性の姿があった。声をかけてみると、ここで騎馬武者仲間と会う約束をしていたのだが、待ちぼうけを食らわされたとのことだった。
小高郷騎馬会の渡部孝信さん。
馬頭観世音の文字は田中角栄元首相の直筆 私が、野馬追と競馬とのつながりを取材に来たむねを話すと、その騎馬武者、渡部孝信さんはパッと表情を明るくした。
「私も、この間まで元競走馬と一緒に暮らしていて、野馬追に出ていたんです」
「そうなんですか。現役時代の馬名、わかります?」
「何だったかな……そう、タガノムゲンだ。震災のあと、北海道のNPO法人がやっている養老牧場に避難させたんです。確か、何とか『い』という地名だったなあ」
「え? ぼく、2か月ぐらい前、そこでタガノムゲンに会ってきましたよ」
私は、そのタガノムゲンや、旧知の小桧山悟調教師が管理していたウルヴズグレンなど、福島から北海道に避難した被災馬を5月に取材し、「週刊競馬ブック」にリポートを書いていたのだ。
この偶然には、タガノムゲンの元オーナーの渡部さんも驚いていた。
「本当ですか? 尾花栗毛の馬ですよ」
「ええ。ぼくも北海道出身のくせに地名は忘れてしまったのですが、すごく大切にされて、かわいがられています」
私が言うと、渡部さんは嬉しそうに笑った。
「それにしても、何とか『い』だったことは覚えているんだけど……」
「はい、ぼくもです。積丹半島の付け根の、ええっと……」
あとで思い出したその地名は「岩内(いわない)」である。岩内で暮らす方々の名誉のために加えると、札幌で生まれ育った者なら絶対に知っている地名で、それを忘れた私のほうがどうかしている。正確に言うと、前記2頭は、北海道岩内郡共和町前田の「
ホーストラスト北海道」で、タイキマーシャルやマイネルモルゲンなどの元競走馬や、アラブ、道産子など十数頭の馬とともに繋養されている。
相馬野馬追のあと、私は、7月末からひと月近く、札幌の実家に滞在していた。せっかく北海道にいるのだから、東京にいるときにはなかなか会えない人や馬に会おうと思い、ホーストラスト北海道を再訪することにした。訪ねる前にマネージャーの酒井政明さんに電話し、福島でタガノムゲンの元オーナーの渡部さんに会ったことを話すと、すごく喜んでくれた。こんなふうに、馬がつないでくれた人の縁を確かめ合うのは楽しいし、ほんわかと幸せな気分になれる。
実家からホーストラスト北海道まではクルマで2時間ほどの道のりだ。小樽運河の脇を抜け、余市で海から離れて国道5号線をさらに進み、美しいニセコの山々を南に望む静かな地にそれはある。
タガノムゲンと酒井政明さん 私は人の顔を覚えるのが得意で、野馬追のときも、2006年にディープインパクトが参戦した凱旋門賞の追い切りのあと一緒に食事をしたNHKのカメラマンがいたので声をかけたら驚かれた。が、その代わり、人の名前を覚えるのがものすごく苦手で、かなり親しい相手なのに名前を間違えて嫌な顔をされることがよくある。そんな私でも、ホーストラスト北海道の酒井さんの名前はすぐに覚えた。名刺交換したときには気づかなかったのだが、原稿を書く段になって文字を入力すると「さかいまさあき」だったからだ。そう、字面はまるで違うが、タレントの堺正章さんとまったくの同音なのである。
この酒井さんが馬たちにそそぐ愛情の大きさには敬服させられる。震災直後から被災した馬を助けたいと思っていた彼は、フェリーの切符がとれるや、飼料を積んだ馬運車のハンドルを自ら握って南相馬市に行き、ウルヴズグレンを乗せて帰ってきた。4月初めのことである。この馬もタガノムゲン同様、騎馬武者の佐藤功さんに飼育されていた。
酒井さんがウルヴズグレンを連れてきたことは4月5日付の「北海道新聞」で大きく報じられ、それをきっかけに、北海道のメディアでは被災馬受け入れに関する話題がたびたびとり上げられるようになった。
テンジンマツリが新冠のタニグチ牧場に引きとられたのは、同牧場の谷口貞保社長がその記事を読んだことがきっかけだった。また、今年2月までJRAの競走馬として走ったあと乗馬として南相馬にいたスマートリーズンがホッカイドウ競馬で再デビューを果たすプロセスは、新聞でもテレビでも特集された。
今、タガノムゲンやウルヴズグレンは「スポンサーホース」という里親をつのる形で養われている(詳しくは
ホーストラスト北海道のサイトをご覧いただきたい)。基本的にここは、馬たちがのんびり余生を過ごす養老牧場なのだが、今後、岩内町の町営牧場だった敷地に移転する予定だという。そうなると、たくさんの人々が暮らすところと近くなるので、酒井さんは、ここにいる馬たちと人々がもっと触れ合うシチュエーションづくりを考えているようだ。
その一環というか、プレイベントのような形になるのだろうが、私が福島で会った渡部さんと佐藤さんが9月にここに来て、野馬追の騎馬武者の鎧をまとい、馬たちとともに近隣の老人ホームなどを回るプランもあるという。酒井さんによると、渡部さんと佐藤さんは、「自分たちの馬を引きとってくれたお礼をしたい」と話しており、そのために、重い甲冑と馬具を軽トラックに積んで、津軽海峡を越えてくるとのこと。すごいバイタリティーである。
ホーストラスト北海道を訪ねた2日後、私は、日高町が輸送費と来春までの預託料を負担し、南相馬市から被災馬を初めて受け入れる現場を取材した。そのとき、受け入れ先の法理牧場に来た9頭のなかに2001年のジャパンダートダービーで2着に健闘したメイショウアームがいた。先述した「週刊競馬ブック」の被災馬リポートに、受け入れのビジョンを語る立場として、生産者であり北海道議会議員でもある藤沢澄雄さんのインタビューを掲載したのだが、メイショウアームは藤沢さんの生産馬である。これもまったくの偶然で、受け入れ当日まで藤沢さんも知らずにいたという。
「競馬サークル」という輪のなかにいるのだから当たり前なのかもしれないが、それでも、引退後何年も経ってから、こうして馬と人とのつながりを確かめられるのは、とても素晴らしいことだと思った。
あちこち動き回っているときほど、そうした縁に不意にからめとられ、人々に伝えられるべき物語があることに気づく。さあ、次は誰に会いに行こうか。