ドバイから帰国した翌日、「週刊競馬ブック」の連載エッセイを送り、クルマの定期点検のため品川駅近くのディーラーを訪ね、金、土は「優駿」の取材で、1年5か月ぶりに競馬が開催された福島競馬場に行った。
非常識なほど日焼けして帰国したので、福島競馬場で会ったラジオNIKKEIアナウンサーの佐藤泉さんや小桧山悟厩舎の梅澤聡調教助手には「ドバイ焼け、いい色ですねー」と言われ、JRA広報部のT田さんには「うわ、どうしたんですか」と驚かれた。
私は貧乏性なので、陽射しの強いドバイに行ってプール付きのホテルに泊まると「焼かなきゃ損だ」と思ってしまうのだ。また、今はそんなことはしないが、20代のころは体を鍛えており(学生時代「ミスター早稲田ボディビルコンテスト」で4位入賞したこともあった)、大胸筋や上腕二頭筋がいい感じで発達し、さらにこんがり日焼けなんぞしたら「見せなきゃ損だ」と思ってしまい、街中で上半身裸になって、嫌がる友達に写真を撮らせたことも一度や二度ではない。
一緒に脱いだ友人もひとりだけいた。が、いつだったか、日本経済新聞社に勤めている共通の知人からの年賀状に「××が行方不明です」と、その友人のことが書かれていた。彼は、早稲田の法学部を卒業して指圧師になった変わり者だ。あいつのことだから、発展途上国を渡り歩いて指圧をひろめるなど、普通の人がしないようなことをして、しぶとく頑張っていると思うが、心配である。
書いているうちに、自分が何を言おうとしていたのか、わからなくなってきた。
最近、トイレで素っ裸になって逮捕された国税局職員がいたりと露出狂のニュースが多い、とかいう話ではない(それに私は、露出狂ではなく貧乏性なだけである)。
思い出した。日本馬が揃ってドカ負けしたドバイの話である。かつてヴァーミリアンが、2007年のドバイワールドカップで4着に敗れた遠征を機に力つけて活躍したように、遠征そのものでは結果が出なくても、それを超回復(トレーニングで壊れた細胞が復活するとき、前のレベルよりも高いところまで回復すること)のきっかけとし、「意味のある経験」にしなければならない。
馬だけでなく、取材した私にも同じことが言えるのだが――。
私は今回、出発前、「日本馬の結果次第でリポートを書く」という約束をいくつかの雑誌ととりつけて取材に行ったのだが、ご覧のとおりの結果だったため、ひとつもリポートを書かずに今に至っている。なのに、鏡を見るたび健康そうに焼けた自分の顔が映るものだから、アホらしくなる。
もっかのところ、この日焼けがネタになるぐらいで、飛行機代と、主催者が負担してくれる4泊ぶんからはみ出た2泊ぶんのホテル代やメシ代などをペイできる見込みはない。
さて、私はこんな調子だが、武豊騎手はドバイから帰国したあと4日に船橋のマリーンカップでプレシャスジェムズに騎乗し、翌日、福島県知事を表敬訪問して福島に競馬が帰ってくることをアピールし、その足で福島競馬場を視察した。そして来週土曜日、21日には福島牝馬ステークスでアカンサスに騎乗する予定で、これが6年ぶりの福島参戦になるという。
私は、その前日の金曜日、本稿の取材で福島県相馬市と南相馬市を訪ね、翌日福島競馬場で武騎手の騎乗を見るつもりでいる。
先日の福島取材で利用したタクシーの運転手はみな「1年5か月ぶりの再開」ということと「武豊が21日に来る」ということを知っていた。が、「アントニオ猪木が8日に来る(来た)」ということを知っていた運転手はいなかった。当たり前だが、福島競馬場では、「アントニオ猪木」より「武豊」のほうが人を呼べるのだ。
私は福島でタクシーに乗り、感じの悪い運転手に当たったことが一度もない。みな以前は競馬が再開されることを心待ちにし、再開されてからはそれを心から歓迎していることが伝わってきたから余計にいい人だらけに思えたのかもしれないが、特にヘルパー2級の有資格者であることを示すシールを助手席後部に貼っていた人なんかは、目的地に着いてからもずっと話していたいと思ったぐらい、あたたかい人だった。
「利用者さんの体調やご病気の症状は人それぞれですから、それに合ったペースで介助することが何より大切で、難しいですね」そう話す福島弁の響きも、優しかった。
福島の街中や競馬場で、同じ響きに触れるのが楽しみである。