かつて国家存亡の非常時に首相に就任したウインストン・チャーチルは、そのときの感慨をこう記したと伝えられている。「過ぎ去った人生のすべては、ただこのとき、この試練のための準備にすぎなかった」と。その決意のほどが伝わってくる。
これに似た瞬間、身に覚えがあるだろうか。そうそうあっては困るが、いざと言うときの心構えとして知っておく意味は大きい。
競馬に訪れる非常時、これはいくらでもある。ありすぎて、とても非常時とは言えないかもしれない。だが、覚悟をしないと前に進めないのはたしかだ。その都度、試練を乗り越えて行くようなものだ。
競馬は、どんなに論理を突き詰めていったとしても、それが正解とは言えないところに難しさがある。強いものが勝つというなら、競馬に面白味はないと言ってもいい。競馬を愛した詩人の寺山修司は、こう記していた。
競馬においては、「強いものが勝つ」という論理は通用などしない。本質が存在に先行するならば、賭けたり選んだりすることは無用だからである。「勝ったから強い」のであり、存在は本質に先行するからこそ、人は「存在するための技術」を求めてやまないのであると。
春の天皇賞で大番狂わせがあったからといって、悔やむことはないのだ。寺山のこの言葉を胸に刻めば、これはこれとして次に進む力がわいてくるし、そうでなければならない。勝者は大いに称えられていいが、敗者には次に存在するための努力をするという時間が与えられている。それでいいのだ。
いや、今回の敗者の次のレースは、かのチャーチルのそのときの感慨に近いものになるかもしれない。あまりにも本質が大きいのだから、これを存在として示すには、その試練のための準備は並大抵ではあるまい。どうこの苦境を凌いで輝きを取り戻すか。すべては、そのときにかかっている。