よくわきまえた人の態度という件(くだり)が徒然草にある。立派な人は、知っていることだからといって、物知り顔をして言うだろうか。よく心得ている道には、必ず口を重くし、人が尋ねない限りは、自分から言い出したりしない態度こそが立派なのだと、大伴茫人(おおとものぼうじん)氏の語釈はわかりやすい。
問われもしないのに口を開く、競馬ではよくあることだから気をつけようと、よく自分に言い聞かせてきた。つい調子に乗ってベラベラと自説を展開し、その直後、しまったと自責の念にかられる。自分の浅はかさに嫌悪をするのだ。失敗は繰り返す、これも真実だ。
なかなか物事をわきまえた人間になり切れないから、いつも自分の心と戦ってばかりいる。それではいけないと、そんなことは承知しているのに、そうはなれない。
問はぬ限りは、言わぬこそいみじけれと呪文を唱え、この口が重くなることを願い続けるしかない。修行は続けていくものだから。
こんな時、自分よりさらに物知り顔をする者がいてくれたら、この身は助かる。立派でない態度を見せつけるその顔に、まわりのみんなが嫌悪している。ああ、またいつものように自説を展開しているぞ。尋ねてもいないのに、なんてうるさいのだ。ああはなりたくない。なってはいけないのだと。その瞬間、立派な人間の道を歩いているような気になれるのだ。やがて、それが錯覚だと思い知るのだが、その時は確かに口を重くしている。ちょっとまともになっているなという実感があって、満たされている。
結局、よくわきまえた態度の人間になろうとはしても、そうなれない人間たちに囲まれているのが競馬場で、お互い、軽口を叩きながらも、なんとか物知り顔をするのはやめようと自分を戒めているのだ。そうした気分に浸れるだけましで、何も心配することはないのだと、競馬は教えてくれている。