浮世、浮かれ騒いでいる世間、はかない世の中、いろいろ考えられるが、もともとは憂き世、辛いことの多い世という意味を含んでいた。仏教の考え方がこれにつけ加えられていくと、この世は無情で仮の世という見方が広まっていく。
五木寛之氏は、戦後の50年間は躁の時代だった。その後10年の空白を経て、次の50年間は欝(うつ)の時代に入っていくと語っている。さわがしい世の中から一変して、気のふさぐ日々がという見方頷ける。
人と会ってもいい話ばかりでなく、にがい話もきかなくてはならない。とうてい呑めない話を無理やり呑みこまされることもある。てんでお話にならない話に耐えなくてはならないときに、気のおけない人とのおしゃべりは救いになるし、人生における最高のぜいたくのひとつだ。難しい用件もなく、ひたすらおしゃべりに夢中になれるひととき、そう競馬場のスタンドで会う仲間たちとのひとときがそんな感じだ。
競馬好きという共通点があって、とにかく安心してその場にいられる。気のふさぐ時代が続くのなら、どうやって気を晴らすかの知恵をひねり出さなくちゃならない。競馬を介して語り合う仲間をつくるのも、その知恵のひとつに加えてみてはどうか。
確かに競馬の果たしてきた役割の中に、そういう要素はあった。そして、これからは一層、その存在は意味を深めていくだろう。
近代競馬150年の今年、その文化的側面にもっとスポットライトを当てるべきだと思うのだが、今のところ、どこか空回りしているよう見えてならない。もっと分かりやすく扱うのがいいと思うので、語り合うのも文化という捉え方をしてみたい。語り合う、語り合う場としての競馬場。そこに行けば仲間に会えて、ふさぐ気持が晴れる。そこにちょっとした食べ物があれば、さらに上等な場になって楽しいではないか。