夕べ、東京の自宅兼事務所で初代ダービージョッキー・函館孫作のデビュー当時の成績が掲載された資料を読んでいたとき、息が苦しくてどうも集中できなかった。なぜ苦しかったかというと鼻にティッシュを詰めていたからだ。なぜそんなことをしたかというと鼻水が止まらなかったからで、なぜ止まらなかったかというと花粉症だから。なぜ花粉症になったのかは私にはわからない。
こんなふうに、何でも理詰めで説明できるような気になっていながら、肝心なことはわからずにいるということは案外多い……というより、世の中、そんなことだらけである。
なぜ函館孫作の成績を調べていたかというと、4月から「週刊ギャロップ」に連載する競馬歴史小説を書くためである。
孫作は、1889(明治22)年10月28日、北海道の内浦湾に面した森村(現在の森町)で生まれた。生家は旅館を営んでおり、父が「日本馬術の英雄」と呼ばれた函館大経の弟子だった関係から自らも大経の門下生となり、騎手としてデビューする。
そのとき、孫作の名字は「千歳」であった。資料によると、彼は21歳のとき函館家の養子となったという。が、成績表に載った彼の名が「千歳」から「函館」になるのは、その何年もあとのことである。
なぜ彼は函館家の養子になってすぐ函館孫作にならなかったのか。いろいろ調べてみたが、理由はわからない。
実は、資料にある「○歳で弟子入りし、×歳で騎手になり」といった記述の年齢が数え年なのか満年齢なのかもはっきりしない。数えか満かで1年ズレてしまうのだが、その資料が発行された昭和18年は「年齢計算に関する法律(明治35年法律第50号)」が施行されたあとだったが、一般には数え年が使われていた。それでも出版物は法に従って満年齢にしていたかもしれない。が、その記述はコラムのような体裁なので、書き手の話し言葉に近いとも言え、一般に伝わりやすい数え年を使ったかも……といった具合で、競馬史をひもといていくと、わからないこと、はっきりしないことに実によく行き当たる。
ノンフィクションを書くときは、わからないことやどっちつかずのことがあると「いやあ困った」となるのだが、フィクションの場合、「なぜだろう」と思う空白やあやふやなことがあると、それが想像力を働かせるきっかけとなって、物語を生み出すことができる。というのは、ある大作家の受け売りなのだが、ともかく、孫作はプロフィールに謎の多い人なので、小説の書き手としてはありがたい。
初代ダービージョッキーでありながら謎が多いのはなぜか。
それは、中山競馬場に厩舎を構えていた彼が、昭和25(1950)年に開場した大井競馬場に移籍(その後船橋へ)してしまったからである。中央の函館厩舎の所属騎手には鈴木勝太郎元調教師(ハイセイコーの管理者)、高橋英夫元調教師(JRAの騎手・調教師の両方で初めて通算500勝以上を挙げた)といったビッグネームもいたのだが、そうした人脈が中央と地方に分散することになった。
国営競馬が日本中央競馬会になったのは昭和29(1954)年で、それ以前と以降では残っている資料の量も精度も格段に違う。
ただでさえ詳細が残りにくい時代にそうしたことが重なり、ミステリアスな存在になってしまったのである。
今年は日本ダービーが節目の第80回を迎えるということで、さまざまな媒体で函館孫作の名を目にすることになるだろう。
さて、今回は「わからないこと」について書いてきたので、最後に「わかったこと」をひとつ。
東京優駿は「東京優駿大競走」という名で創設され、現在JRAは「東京優駿(日本ダービー)」と表記している。私たちが「ダービー」とか「日本ダービー」と呼んでいるのは東京優駿なわけだが、では、このレースはできたばかりのころから「ダービー」と呼ばれていたのだろうか。
私はそれが知りたくて、資料を調べたり、競馬史に詳しい学芸員や、前述の高橋英夫元調教師、日本にモンキー乗りを普及させた保田隆芳元調教師ら、草創期のダービーを知る人に訊いたりしていたのだが、どうもはっきりしなかった。第15回(昭和23年=1948年)のポスターに「ダービー」とプリントされているので、そのときにはもう呼ばれていたのは確かだ、というところまでは学芸員に教えてもらい、わかっていた。競馬史に関する様々な知識を分けてくれた高橋氏も保田氏も「どうだったかなあ」と記憶がはっきりしない様子だった。
それがわからないと、ギャロップで連載する小説に、当時のホースマンの会話として、例えば、「あの馬、ダービーに間に合いそうか?」と書いてしまっていいものかどうか、迷ってしまう。
どうしようかな、と思いながら、第1回日本ダービーが行われた昭和7(1932)年の雑誌「馬の世界」1月号をパラパラめくっていると、「日本競馬の父」と呼ばれた日本ダービーの生みの親・安田伊左衛門が「日本ダービーに就いて−東京優駿競走の話−」(原文ママ)と題した文章を寄稿しており、ほかの人も「日本ダービー」と表現していることがわかった。
日本ダービーは、誕生したときから「日本ダービー」と呼ばれていたのである。
函館孫作も、当時から「ダービージョッキー」と呼ばれていたのかもしれない。「東京優駿大競走優勝騎手」よりは言いやすいし、可能性は高いと思うが、明治時代に「東京ジョッケークラブ」という団体があったので「ダービージョッケー」だったのかもしれない……とやっていくとキリがないので、きょうはこのへんで。
今、札幌の生家にいる。少し前にドカ雪に降られ、冗談みたいな雪景色である。満開のソメイヨシノを見られないのは残念だが、杉花粉がないので、目も鼻も口の中もムズムズしない。花粉症のひどい人は、この時期北海道に避難するのも方法かと。