◆新橋居酒屋シリーズ・中山牝馬S編
「あれ? とっつぁんじゃないか……、とっつぁん!」
すれ違った初老の男に呼びかけると、男は背中をぴくりとさせた。
私は男の前に回り込んだ。
「やっぱりそうだ、とっつぁんだ」
「あんたは……」
「おれだよ、忘れたのか」
「ひょっとして、あきちゃんか?」
しわがれ声は25、6年前のままだ。もう60歳近いはずだが、もともと老けて見えたので、無精髭が白くなった以外は変わらない。
「うん、懐かしいなあ。とっつぁんは、今も役者やってるんですか」
「ああ、高岡健二さんのいる事務所で、新人ってことになってるよ」
今年に入ってからもドラマ「相棒」で暴力団の組長役などを演じたという。
私が競馬を始めたばかりだった1980年代後半、私と、私の弟と、そしてこのとっつぁんの3人は、向島の借家で一緒に暮らしていた。私の弟も俳優で、所属事務所の社長の鞄持ちや運転手などの雑用をこなす「ボーヤ」をしながら、ときどきチョイ役でドラマや映画に出演していた。その事務所にとっつぁんがいた。役者だけでは食えないので建設現場で肉体労働をしており、私も何度か一緒に汗を流したことがある。
「ところで、競馬のほうは?」
私が訊くと、とっつぁんはニヤリとし、ブルゾンの内ポケットから専門紙をとり出した。
「ぼちぼちやってるよ。なかなかサンドピアリスみたいなことはないけどね」
「そっかァ。そういえば、とっつぁん、あの単勝万馬券を1000円獲ったんだよな」
89年のエリザベス女王杯だった。払戻しは43万円以上になり、近所の喫茶店でオムライスを奢ってくれた。
「もっと高いもん食わせろって、あきちゃんとよっちゃんに怒られたっけなあ」
「ハハハ。それはそうと、時間があるなら、これから一緒にどうですか。何人かと居酒屋で待ち合わせてるんで」
「うん、でも、いいの?」
初対面の自分が加わってもいいのかという意味なのか、それとも、金は出してくれるのかと訊いたのかわからなかったが、私は「いいの、いいの」と、ディレクターのレイたちが待つ居酒屋ののれんをくぐった。
「お、島田さん、珍しく早いっスね」
とレイが自分の隣の椅子を引いた。
「飲み会以外は必ず遅れてくるお前に言われたくないよ。で、この人は……」
と、レイとキャスターのユリちゃんにとっつぁんを紹介した。
「レイさんは、どんな字を書くの?」と、とっつぁん。
「励むのレイです」
「ほう。名前だけ見た人は、女と間違えるだろうなあ」
とっつぁんは、レイの「ディレクター」という職業に反応したようだ。
「とっつぁん、レイが演出しているのは情報番組ばかりだから、コネをつくったってムダだよ。料理番組もやってるんだよな」
私の言葉を聞いたとっつぁんの視線が一瞬、レイの足元に落ちた。きょうも素足にサンダルである。さすがに料理番組のロケのときは靴下ぐらい履くと思うのだが、事実を確かめるのが怖くて、一度も訊いたことがない。
ユリちゃんがとっつぁんのグラスにビールを注ぎながら言った。
「とっつぁんさんと島田さんの再会を祝して乾杯しましょう!」
「『さん』はいらないよ」
と、とっつぁんはニヒルに笑った。
「この人はね、サンドピアリスの単勝を1点で獲ったことがあるんだ」
私が言うと、レイがおでんのきんちゃくに箸をつけたまま目を丸くした。
「まじっスか」
「まじっス」と、とっつぁん。
「わたし、それ勉強しました。今年のフェブラリーステークスより高かったんですよね」
とユリちゃんが目を輝かせた。
「ふっ」と、またとっつぁんが笑い、
「あんときのコパノリッキーの単勝も獲ったよ」
とビールを飲み干した。
「えーっ!」
カウンターのなかのハゲオヤジまで、レイたちと一緒に声を上げた。
ひとり、私だけが、とっつぁんの悲哀に気づいていた。サンドピアリスで43万以上儲けてから、彼がずっと大穴の単勝ばかり狙っていたことを思い出したのだ。あれから25年、役者をつづけて夢を追いながら、同時に単勝の穴買いもつづけていたとは……。
まあ、でも、それはそれでたいしたものだ。GI史上最高と歴代2位の高配当となった単勝をどちらも獲った馬券オヤジは、世界広しといえどもそういないだろう。
昆布巻きばかり何個も食べてから、とっつぁんが専門誌の馬柱を指さした。
「中山牝馬ステークスは、セキショウの単1点」
と、これがお代だと言わんばかりに立ち上がり、出て行った。
そんなところも昔のままだった。
中山牝馬ステークスは、とっつぁんのセキショウと、私が目をつけているエバーブロッサムをからめて買ってみたい。