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武豊騎手の強さ

  • 2014年03月29日(土) 12時00分


◆武豊騎手が持つ力や強さはどこから来るのか

 前々回の本稿「とっつぁんの単勝」のとっつぁんは実在する。

 野口寛という役者だ。ネット検索したらプロフィールと顔写真などが出てくるので、興味のある人は見てくれてもいいし、もちろん、見なくても特に困ることはないと思う。

 とっつぁんがサンドピアリスの単勝を1000円獲ったのも本当だし、43万いくらの払戻しがあったのに、ご馳走してくれたのがオムライスだけだったというのも実話である。

 しかし、最後に会ったのはあのエリザベス女王杯の少しあとで、20年以上、どこで何をしているのかも知らずにいた。本稿の「居酒屋シリーズ」の登場人物になってもらおうと検索してみて初めて、今も俳優をつづけていることを知って驚いた。

 プロフィールによると、今年59歳になるという。私と9歳しか違わない。向島の借家で私の弟を含めた3人で暮らしていたころは、私が20代前半で、とっつぁんは30代前半だったのか。その年齢での10歳差は大きいので、もっと離れているように思い込んでいた。

 とっつぁんも私もブレイクして、

 ――野口寛と島田明宏が向島の借家で一緒に暮らしていたことがあるんだってよ。

 と言われるよう、頑張りましょう、野口さん。

 私は、どうやら遅咲きらしい。

「あいつは晩成型だよ」と、私淑する伊集院静氏が編集者に話していたという。人づてにそう聞いてから15年以上になる。

 本当に咲くのなら遅くても構わないのだが、咲かないまま終わったらどうしよう、やばいぞ……という危機感が、私の「書く動機」のひとつになっている。

 前にも書いたように、私は、文章を書くのが好きで物書きになったわけではなく、毎日同じ場所に通うなんて嫌だ、いつも職場で顔を合わせる人間を自分で選べないなんて嫌だ……と、あれやだこれやだと言っているうちに、これしかできることがなくなっていた。これしかできないのだから、この道で食っていくしかない。どうせやるのなら、人並みで終わるのは嫌だ。上手くなりたい、もっといい書き手になりたい、と考えるようになった。つまり、私の「書く動機」は、途中からできたものなのである。なぜ始めたかはどうでもよく、やりかけたのだから、最後まで頑張る――というのが、私のスタンスである。

 おそらく私は、物書きになるために生まれてきた男ではない。

 しかし、彼は違うよな、と、このところずっと格闘中のゲラに手を入れながら、あらためて思った。

 誰のことかというと、武豊騎手である。

 彼は、間違いなく、騎手になるために生まれてきた男だ。

 彼の曾祖父である武彦七は、「日本馬術の父」と呼ばれた函館大経の弟子だった。父の邦彦氏は、彦七の兄の園田実徳がつくった園田牧場で生まれ育ち、「ターフの魔術師」と呼ばれる名騎手になる。

 私はただたんに世襲を肯定しているわけではなく、彼の体内を流れる「ホースマンの時間」こそが、あの美しい騎乗フォームにつながっているような気がしてならないのだ。

 格闘中のゲラというのは、4月中旬、徳間書店から発売予定の自著『誰も書かなかった武豊 決断』のものである。

 編集者からは、「客観的ノンフィクションの体裁をとりつくろうのではなく、島田さんとの関係から見える、武さんの心の軌跡を追ってください」と言われた。

 2010年毎日杯の落馬負傷以降、キャリアに大きな山と谷ができた。そんな今だからこそ、彼の心の動きをなぞることによって、彼が持つ力や強さを感じ、それらを読者と共有できるようにしたい――というのが、私が書きながら思っていた、この本の主題である。

 本文の内容に関しては、すべて私の責任で書き、任せてもらっているのだが、少し前の段階の原稿の一部を、「こんな感じでやっています」という確認の意味で武騎手に見てもらうことにした。

 毎日杯の落馬直後の彼の様子なども書いたので、レース前に読んだりすると嫌なものが蘇ったりするのではないかと心配になり、そのむねを伝えた。

 すると彼は「ん?」と言ってから、

「ああ、別に構わないですよ」

 と笑った。

 最初に「ん?」と言ったのは、私が「毎日杯のこと」としか言わなかったので、どの毎日杯なのか、すぐにはピンと来なかったかららしい。

 彼にとって、あの落馬は、記憶にふたをして封じ込める必要などないものだという。

 若干ネタバラシになったが、そうした彼の強さはどこから来るのかを、私なりに書き込んだつもりだ。

 今回に始まったことではないが、我田引水になったことをお許しいただきたい。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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