昨年、念願のJRA賞最多勝利騎手に輝き、いまや押しも押されもせぬトップジョッキーとのひとりとして、日本競馬界を牽引する福永祐一。“福永洋一の息子”として、長年プレッシャーと戦いながら、ときに挫折を味わいつつも、決して自分自身と向き合うことを恐れなかった。まだまだ戦の途中ではあるが、有言実行を体現してきた彼には語り継ぐべきことがある。ジョッキー目線で語るレース回顧『ユーイチの眼』や最新の『喜怒哀楽』、さらには福永祐一のルーツに迫る『祐一History』など、盛りだくさんの内容でお届けする新コラム。彼のバイタリティーのすべてがここに。
■初めての挫折、そして自分との対峙 本気でトップを目指し始めて4年。去年ようやく、ずっと目標にしてきたJRA賞最多勝利騎手のタイトルを獲ることができた。2011年にもJRAの全国リーディングを獲ることができたけれど、その年は(地方の勝利数も合算される)JRA賞最多勝利騎手も最多賞金獲得騎手も岩田くんで、自分のなかの2011年は、岩田くんに完敗した年だと思っている。
福永洋一の息子として、今思えば、異常な注目度のなかデビューして17年。北橋先生と瀬戸口先生からの全面バックアップもあり、同期たちに比べ、スタートラインがかなり前に設定されていた自覚はあったし、そのぶん結果を出さなければアッという間に淘汰されるだろうという覚悟もあった。だからこそ、“結果を出さなければ”というプレッシャーで、当時はいつも一杯一杯だったような気がする。
普通の若手なら、まずは上手に馬に乗るための努力をする。でも自分は、勝つためのポジショニング、つまり、レースセンスを磨くことから始めた。同時に騎乗センスも磨くことができればよかったのだけれど、自分にはそこまでのキャパシティがないことをわかっていた。
2006年に北橋先生が、2007年には瀬戸口先生が定年を迎え、目に見えて成績が落ちた。岩田くんが園田から移籍してきたのも同じころで(2006年)、岩田くんが大きいレースでバンバン人気馬に乗っていた一方で、重賞でチャンスのある馬に乗る機会も、以前に比べて明らかに減っていった。傍から見れば大したことじゃないのかもしれないけれど、あの頃は自分の限界を感じて、気持ちがドーンと落ちた。今思えば挫折というか、挫折を感じた時期…だったのかもしれない。
当時は、リーディングを獲るなんて、まったく現実的ではなかった。あまり覚えていないのだけれど、雑誌の取材で「リーディングは意識されていますか?」と聞かれたときに、「そんなの無理やで」って即答したらしいからね。
そんなとき、時を同じくして岩田くんや友人からの助言や叱咤があったり、馬乗りのプロが集まっている藤原英昭厩舎の調教を手伝い始めたことも影響して、自分のなかで意識改革が起こった。騎乗技術に関しては、いったんゼロになろうと思えたんだよね。とはいえ、そこまでのキャリアを全部捨てるわけではなく、引き出しをいったん引き抜いて別の場所に移すだけ。とにかく自分のなかに新しい引き出しを増やさないと、良くも悪くも変われないと思った。