■勉強でもなんでも“平均よりちょっと上” そもそも、栗東に住んではいたが、地元の金勝(こんぜ)小学校に通ったのは2年生の途中まで。当時、近所に住んでいた5つ年上の親戚のお兄ちゃんに憧れていて、そのお兄ちゃんが近江兄弟社学園(近江八幡市にある保育園・幼稚園から高等学校まで一貫教育の学校法人)の中学に通っていたことから、「一緒に行きたい」と言い出したのだ。
ここで少々、母方の家系を説明すると、祖母の妹が栗東で開業していた日迫清調教師の奥さんで、その縁で父と母は出会ったという。ちなみに、競馬ファンのあいだではよく知られたことだと思うが、フリーアナウンサーの徳光和夫さんも母方の遠戚にあたる。ということは、ミッツ・マングローブさんも遠戚で、一度「こんなのが親戚にいてスミマセン」と電話をもらったことがあったっけ(笑)。
話を戻すと、憧れていた親戚のお兄ちゃんとは、現在、森厩舎で調教助手をしている日迫祐希くん。とにかく、祐希くんと同じ学校に行きたくて、小学2年の途中で近江兄弟社学園に転校した。最初の頃こそ、祐希くんに連れて行ってもらったり、母親に車で送り迎えをしてもらっていたが、慣れてからはひとりで栗東から草津駅までバスに乗り、草津からJRで近江八幡まで行って、近江八幡駅から学校までまたバスに乗るという毎日を送った。
今思うと、早くから電車通学を経験したことは、多少なりともその後の人間形成に影響を与えたような気がする。視野が広がったというか、我ながら早くから自立心旺盛な子供だったと思う。
転校してから6年生まで、ずっと1学年1クラスで、同級生に競馬関係者の子はひとりもいなかった。だから、自分が“福永洋一の息子”だということを意識するような出来事もなかったし、3年生からは部活も始まり、ますます競馬とは縁遠くなっていった。部活は、生徒数が少なかったから、サッカー部と放送部ともうひとつくらいしかなくて、自分は迷わずサッカー部に入った。サッカー部では特別目立つような存在ではなかったけれど、結局、小学3年から中学を卒業するまで、サッカーに明け暮れる日々が続いた。部員のなかで一番家が遠かったが、中学から始まった朝練にもまだ暗いうちから起き出して、毎日欠かさず参加した。そういうところはマジメというか、ズル休みというものができない性格で、それは今でも変わらない。
小学5年生のとき