スマートフォン版へ

【祐一History vol.2】『“一番”になるために選んだ騎手の道』

  • 2014年05月20日(火) 18時00分
祐言実行


■勉強でもなんでも“平均よりちょっと上”

 そもそも、栗東に住んではいたが、地元の金勝(こんぜ)小学校に通ったのは2年生の途中まで。当時、近所に住んでいた5つ年上の親戚のお兄ちゃんに憧れていて、そのお兄ちゃんが近江兄弟社学園(近江八幡市にある保育園・幼稚園から高等学校まで一貫教育の学校法人)の中学に通っていたことから、「一緒に行きたい」と言い出したのだ。

 ここで少々、母方の家系を説明すると、祖母の妹が栗東で開業していた日迫清調教師の奥さんで、その縁で父と母は出会ったという。ちなみに、競馬ファンのあいだではよく知られたことだと思うが、フリーアナウンサーの徳光和夫さんも母方の遠戚にあたる。ということは、ミッツ・マングローブさんも遠戚で、一度「こんなのが親戚にいてスミマセン」と電話をもらったことがあったっけ(笑)。

 話を戻すと、憧れていた親戚のお兄ちゃんとは、現在、森厩舎で調教助手をしている日迫祐希くん。とにかく、祐希くんと同じ学校に行きたくて、小学2年の途中で近江兄弟社学園に転校した。最初の頃こそ、祐希くんに連れて行ってもらったり、母親に車で送り迎えをしてもらっていたが、慣れてからはひとりで栗東から草津駅までバスに乗り、草津からJRで近江八幡まで行って、近江八幡駅から学校までまたバスに乗るという毎日を送った。

 今思うと、早くから電車通学を経験したことは、多少なりともその後の人間形成に影響を与えたような気がする。視野が広がったというか、我ながら早くから自立心旺盛な子供だったと思う。

 転校してから6年生まで、ずっと1学年1クラスで、同級生に競馬関係者の子はひとりもいなかった。だから、自分が“福永洋一の息子”だということを意識するような出来事もなかったし、3年生からは部活も始まり、ますます競馬とは縁遠くなっていった。部活は、生徒数が少なかったから、サッカー部と放送部ともうひとつくらいしかなくて、自分は迷わずサッカー部に入った。サッカー部では特別目立つような存在ではなかったけれど、結局、小学3年から中学を卒業するまで、サッカーに明け暮れる日々が続いた。部員のなかで一番家が遠かったが、中学から始まった朝練にもまだ暗いうちから起き出して、毎日欠かさず参加した。そういうところはマジメというか、ズル休みというものができない性格で、それは今でも変わらない。

 小学5年生のとき

続きはプレミアムサービス登録でご覧になれます。

登録済みの方はこちらからログイン

質問募集
祐言実行 / 福永祐一
このコラムでは、ユーザーからの質問を募集しております。あなたから
コラムニストへの「ぜひ聞きたい!」という質問をお待ちしております。
質問フォームへ
祐言実行とは
2013年にJRA賞最多勝利騎手に輝き、日本競馬界を牽引する福永祐一。まだまだ戦の途中ではあるが、有言実行を体現してきた彼には語り継ぐべきことがある。ジョッキー目線のレース回顧『ユーイチの眼』や『今月の喜怒哀楽』『ユーザー質問』など、盛りだくさんの内容をお届け。

1976年12月9日、滋賀県生まれ。1996年に北橋修二厩舎からデビュー。初日に2連勝を飾り、JRA賞最多勝利新人騎手に輝く。1999年、プリモディーネの桜花賞でGI初勝利。2005年、シーザリオで日米オークス優勝。2013年、JRA賞最多勝利騎手、最多賞金獲得騎手、初代MVJを獲得。2014年のドバイDFをジャスタウェイで優勝。

バックナンバー

新着コラム

アクセスランキング

注目数ランキング