2001年、中津競馬(大分県)からスタートした廃止ラッシュは、新潟・益田(島根県)・上山(山形県)・足利(栃木県)・高崎(群馬県)・宇都宮(栃木県)と続き、たった4年の間に7つ(主催競馬場のみ)の競馬場が消えていった。さらに、荒尾(熊本県)・福山(広島県)が廃止となり、結局平成に入ってから13もの競馬場が廃止に追い込まれたのだ(三条/新潟県・岩見沢・北見・旭川/3場とも北海道を含め)。長く苦しい時代を過ごし、たくさんの犠牲を払った現在、地方競馬は2年連続で総売得金が前年比を上回るなど、再生へ向けての光が差し込んでいる。13もの競馬場を失って、やっと見えて来た光。今、改めて廃止の現実を振り返り、再生へと繋げるための道を探したい。(取材・文・写真:赤見千尋)(第2回のつづき)▲高崎競馬最後の日、集まったファンへ挨拶(写真提供:原山実子)
◆「関係者には今でも申し訳ないと」 わたしが騎手デビューした1998年当時、高崎競馬の最低賞金は1着33万円だった。勝った騎手には、その5%の15500円が手に入る。しかし、2004年には最低賞金が15万円になっていた。たった 7年で半額以下に激減したのだ。勝って6500円。それでも競馬を続けたいと願う人間は多かった。
高崎廃止騒動の皮切りは、やはり地元新聞だった。
主催者から地元新聞へ情報が流れ、そこから全国紙へ広がって大々的に廃止が報じられる。関係者は必ず新聞で知らされるのだ。この構図は、全国どの競馬場も全く同じ道を辿っている。なぜ新聞記者より先に、関係者に話をしないのだろうか。この1点に絞っても、主催者と関係者の間には、大きな大きな溝があると思えてならない。
わたしは高崎競馬の関係者の一人として、廃止を体験した。だからこそ、わたしの意見はどうしても関係者よりになってしまう。今回、この記事を書くにあたって、主催者目線の意見を聞こうと、当時の競馬組合職員たちに会いに行った。
「正直、限界だった」
「関係者には、今でも申し訳ないと思っている」
そう言って、当時の胸の内を話してくれた。騎手や調教師が移籍出来るように、全国の競馬場へ頭を下げに行った人もいた。再就職先を見つけるために、ハローワークをトレセンに常駐させるよう動いた人もいた。境町トレセンが残れるように、県に陳情した人もいた。関係者vs主催者という単純な構図ではない。組合職員は、群馬県と関係者の間で板挟みとなり、わたしたち関係者とは違った廃止を体験していた。