2001年、中津競馬(大分県)からスタートした廃止ラッシュは、新潟・益田(島根県)・上山(山形県)・足利(栃木県)・高崎(群馬県)・宇都宮(栃木県)と続き、たった4年の間に7つ(主催競馬場のみ)の競馬場が消えていった。さらに、荒尾(熊本県)・福山(広島県)が廃止となり、結局平成に入ってから13もの競馬場が廃止に追い込まれたのだ(三条/新潟県・岩見沢・北見・旭川/3場とも北海道を含め)。長く苦しい時代を過ごし、たくさんの犠牲を払った現在、地方競馬は2年連続で総売得金が前年比を上回るなど、再生へ向けての光が差し込んでいる。13もの競馬場を失って、やっと見えて来た光。今、改めて廃止の現実を振り返り、再生へと繋げるための道を探したい。(取材・文・写真:赤見千尋)(第1回のつづき)◆存続のために奔走した知事たち 突然の中津廃止報道から、さかのぼること3か月前。2000年11月に、群馬県(高崎)・新潟県(新潟、三条)・岐阜県(笠松)・高知県(高知)の4県からなる「地方競馬に関する研究会」が設立された。
この研究会は、全国知事会が行われた時に、群馬県の小寺弘之知事(当時)が地方競馬を主催している知事たちに声を掛けて実現したもので、地方競馬の再生を目指し、「競馬に係る各道県の状況、情報交換と振興についての研究」と「地方競馬の振興に資するための競馬制度に係る見直しの国への要望」を趣旨として行われた。
設立当初は4県のみだったけれど、次の年には、北海道(道営)・栃木(宇都宮、足利)・石川(金沢)・佐賀(佐賀)・岩手(盛岡、水沢)・埼玉(浦和)・愛知(名古屋)が加わり、11道県での連携が始まった。この頃、中津の廃止報道から突然の打ち切りが行われている。各道県の主催者にしても、他人事ではなかっただろう。研究会の議事録を見ると、「どうすれば経営改善が出来るのか」「経営改善が望めないのならば、廃止にするしかない」など、各主催者の切実な状況が語られている。この議事録から読み取れるのは、「なんとか再生の糸口を見つけたい」という前向きな気持ちと、「見つけられなければ、地方競馬に明日はない」という追い詰められた現実だった。
この研究会では、主に年2回、参加している道県の主催者が集まって話し合いを進め、当時の首相や農水大臣、自民党競馬推進議員連盟などに再三要望書を提出した。知事たちの研究会が発足した後、農林水産省でも独自に地方競馬に関する研究会が設立され、こちらの研究会にも要望書を提出している。
▲「地方競馬の振興に係る要望書」
そして、当時の農水大臣政務官や内閣官房長官より、前向きに検討するという回答を得ることに成功した。要望書の内容を簡潔に示すと、(1)競馬の将来構成の提示、(2)中央競馬と地方競馬の共存共栄、(3)地方競馬全国協会交付金等の見直し、(4)競馬場関連施設設備への支援制度の創設などである。この要望が法改正により可能になれば、地方競馬を主催する側にとってのメリットは大きかった。議論を繰り返し、何が地方競馬にとって有益になるかを考え、なんとか廃止を回避しようと研究会は続けられた。
研究会を設立してから4年後の2006年、要望(3)に関する法改正が行われ、7年後の2009年には要望(2)に関する法改正が行われた。地方競馬を主催する知事たちの熱意が、国を動かしたのだ。
◆なぜ高崎は間に合わなかったのか しかし皮肉なことに、研究会の発起人である小寺知事(当時)が管理者だった、群馬県高崎競馬は間に合わなかった。