■当時の自分にはコンプレックスしかなかった
競馬学校での3年間を終え、96年3月2日、中京2Rでデビュー(マルブツブレベスト)し、初騎乗初勝利を挙げることができた。2戦目の3Rも連勝したのだが、そのときに騎乗したレイベストメントは、使えばいつでも勝てるような馬だったのに、先生が馬主さんにお願いして、自分のデビューまで取っておいてもらった馬だった。初日は7鞍に騎乗して2勝。1番人気2頭を含め、すべてが5番人気以内の有力馬というラインナップだった。
その日はすごく報道陣が多くて、自分の単勝がすごく売れていることもわかっていた。ユタカさんでさえ、初日はそれほどいい馬に乗れなかったというから、そんな状況でデビューしたのは、後にも先にも自分くらいだと思う。それもこれも、父親の名前があってのことだし、先生が馬を集めてくれたからこそ。結局、デビュー週に3勝を挙げられたのだが、それで調子に乗るようなことは決してなかった。レースの結果以前に、人として父親や先生の顔に泥を塗るようなことだけはしてはいけない、迷惑をかけてはいけない──つねにそういう思いがあった。
新人のころ、目標の騎手として挙げていたのは四位さん。“福永洋一”という答えを期待した人もいただろうが、自分は父親のレースをほとんど観たことがなかったから、そのすごさがわからなかった。当時、四位さんはよく北橋厩舎の馬に乗っていて、厩舎実習のときに大仲でお会いしたのが初対面。「福永祐一です。よろしくお願いします!」と挨拶したら、「おう!」と答えてくれたのだが、最近その話をしたら、四位さんはそのことをまったく覚えていなかった(笑)。
当時はバレットがいなかったから、実習中の開催日は、競馬場で四位さんの身の回りのお世話をさせてもらっていた。今思えば、当時の四位さんはまだデビュー4年目。目標の騎手として4年目のジョッキーの名前が挙がることなどまずないが、四位さんは当時からそれほどかっこよかったのだ。
▲福永「四位さんが目標だった、それほどかっこよかった」
3月2日のデビューから約1カ月、1回中京8日間で12勝を挙げ、開催リーディングを取ることができた。が、3月27日の中京7Rで大きなミスをやらかし、おそらく当時の騎乗停止期間としてはマックスとなる30日間の騎乗停止になった。