◆忘れられないオオエライジンの思い出「オオエライジンが死んじゃったって、本当ですか?」
海外ロケから戻ったばかりのディレターのレイが、私の顔を見るなり言った。宝塚記念の結果やセレクトセールの目玉の話より、彼にとっては大きな出来事だったのだ。
「残念ながら、本当だ」
「園田と大井に献花台が置かれるってニュースを見て、最初は何のことだろうって思ったんですけど……。いやあ、参った」
と日本酒をあおり、空のコップをカウンターの親父に差し出した。
「そういえば、レイと一緒に2回、あの馬の撮影に行ったっけな」
1度目は2年前の秋、グリーンチャンネルの「日本競馬の夜明け」というワンクールの番組で、最年少ダービージョッキー・前田長吉をとり上げたときだった。長吉がダービーをはじめとする変則三冠を制覇した相棒は、11戦11勝という驚異的な強さを見せた女傑クリフジだった。オオエライジンの血統表のボトムラインをさかのぼると、7頭目に「年藤」という名が見える。クリフジの繁殖名である。つまり、ライジンにとってクリフジは7代母にあたるのだ。栗毛の雄大な馬体、大きな流星、左後一白、首の高い走り方、そして7戦7勝で兵庫ダービーを制し「無敗のダービー馬」となったところまで、ライジンは、7代前の偉大なおばあちゃんと同じだった。
「初めて撮影に行ったときは園田の橋本忠男厩舎にいたんスよね」
と、レイは里芋の煮っ転がしに箸をつけた。
そのときは、デビュー前からライジンの世話をしていた、当時調教師補佐という立場だった橋本忠明現調教師と私が、ライジンの馬房の前でクリフジとのつながりなどについて話すシーンを、レイが撮影した。
「ライジンも、おれたちの話に加わるみたいにしてくれて、楽しかったなあ」
「頭のいい馬でしたね。カメラがどういうものか、間違いなく理解していましたよ」
その後、ライジンは人間たちの思惑によって振り回される。
2012年12月26日の兵庫ゴールドトロフィーで3着となったあと、南関東への電撃移籍が発表された。
「島田さん、ライジンの移籍に関して、事前に何か聞いてました?」
「いや、何も。ニュースで知って、びっくりした。橋本さんに、なんて声をかけたらいいのかわからなくなってさ」
「あのあと、移籍初戦に向けた調教中に鼻出血を発症したんですよね」
「うん。で、その後また兵庫に戻ることになったんだけど、元の橋本厩舎ではなく、西脇トレセンの寺嶋正勝厩舎で管理されることになったのには驚いたなあ」
「そのあとですよね、またあの馬の撮影に行ったのは」
去年の春、グリーンチャンネルの「教えて!Gうーまん〜日本ダービーを学ぶ〜」のロケだった。関西地区をベースに活躍しているキャスターのなっちゃんと私が、ヒサトモ、クリフジ、ウオッカという牝馬のダービー馬についてあれこれ話す、という内容だった。
「宝塚記念の日、阪神で会ったなっちゃんとライジンの話をしたら、彼女、泣きそうになってたよ」
「そうですか。なっちゃん、西脇でライジンの顔を撫でたり、青草をやったりしていましたものね」
しばらくの間沈黙が流れた。
私は、西脇トレセンを訪ねた日のオオエライジンの姿を思い出していた。馬房から出たライジンは、何が不満だったのか、前ガキを始めた。それも2、3度ガリッ、ガリッとやるだけではなく、シャー、シャー、シャー、シャー……と、数十回やりつづけ、砂ぼこりをモウモウと舞い上がらせたのだ。
どうでもいいことのようだが、あれほど長い時間、同じリズムで前ガキをする馬を見たのは初めてのことだった。
「さっき、この馬の顔がええ、っておっしゃっていたでしょう。こんなに耳の短い馬を見たのは私も初めてです」
と新たな担当者が話してくれたことも忘れられない――。
「話を聞いていると、オグリキャップを思い出しちゃうなあ」
と、ケンのサトさんがぼそっと言い、ほうれん草のくるみ和えの小鉢を私によこした。
オグリも、2度に及ぶトレードでオーナーが替わったり、マイルチャンピオンシップから連闘でジャパンカップに臨む過酷なローテーションを強いられるなど、人間の都合に翻弄された。そうして振り回されながらも、ゴールを目指して一生懸命走り切ろうとする姿が人々の心を打ち、国民的アイドルになった。
確かに、人間の思惑とは関係なしに、いつも変わらずひたむきに走るところは、ライジンも同じだった。
レイが言った。
「オオエライジンは、自分で、自分の物語を伝説にするため天国に行ったんですね。そう思わないと、つらすぎます」
ライジンの公認応援隊長・大恵陽子さんの「オオエライジン応援ブログ(
http://plaza.rakuten.co.jp/oeraijin/)」によると、ライジンの母フシミアイドルは、昨春ディープスカイの仔をおなかに宿したまま世を去ってしまったという。
しかし、ライジンの半妹で、2011年度のNAR賞2歳最優秀牝馬となったエンジェルツイートが故郷の伏木田牧場で繁殖入りし、シニスターミニスターの仔を宿している。
これから誕生するサラブレッドの血統表に「オオエライジン」の文字が刻まれることはないが、70年近い歳月を経て、同じ無敗のダービー馬を世に送り出したクリフジの血はつながれるのだ。
「伏木田牧場の伏木田修さんは、『これだけたくさんの人に愛されて、ライジンは幸せだったと思います』って言ってたよ」
私が言うと、レイは、
「またクリフジのこと、映像にしましょう。エンジェルツイートの初仔が生まれたら、ぼくも会いに行きたいです」
と、醤油のこびりついたおしぼりで目元を隠すようにした。
気がついたら終電の時間を過ぎていた。
「よし、きょうはおれもウーロン茶で、朝までレイに付き合うよ」
「そうですか。じゃあ、安心して酔いつぶれさせてもらいます」
と、レイはまた空のコップをカウンターの前で振り、何杯目かわからないお代わりを注文した。
「わたしもお代わりー!」
いつの間にいたのか、キャスターのユリちゃんがジョッキをドンと置いた。
「じゃあ、暗記するまでクリフジと長吉の功績を話してあげよう。長いぞ〜、おれの話は」
と私も彼らと同じように、残ったウーロン茶を一気に流し込んだ。
いつもよりちょっと苦かったが、美味かった。