◆谷中公一調教助手との再会 競走馬が競走馬ではなくなる時、「乗馬」という名目で登録を抹消されても、その後の馬生は決して保障されないという厳しい現実がある。それでも、自分が応援したあの馬が元気で生きていてほしい…心のどこかで願っているファンは多いはずだ。
レッツゴーキリシマという馬がいた。2歳時から頭角を現し、朝日杯FS(GI)でゴスホークケンの2着。3歳になってからは、皐月賞(GI)で5着になり、NHKマイルC(9着)や日本ダービー(13着)のGIレースにも出走。その後も重賞戦線に名を連ねて活躍を続けたが、重賞勝ちには手が届かぬまま時が流れた。
4歳となった2009年秋に栗東の梅田康雄厩舎から美浦の天間昭一厩舎に転厩したのが転機となったのか、レインボーS(1600万下)、カシオペアS(OP)と2連勝を飾り、翌年の夏には関屋記念(GIII)で待望の重賞初勝利を挙げた。いよいよ充実期に突入か…と思われたが、好事魔多し。キリシマは左前脚に浅屈腱炎を発症し、幹細胞移植手術が施されて、約1年10か月の長期休養を余儀なくされたのだった。
▲現役時代のレッツゴーキリシマ(新馬戦優勝時)
復帰したのは2012年の6月。エプソムC(GIII・18着)、中京記念(GIII・16着)と続けて出走するも、キリシマ本来の走りは見られず、2012年の関屋記念(GIII・17着)を最後に競走馬生活にピリオドを打った。
キリシマが最後の直線で見せる粘り腰に魅了されていた私は、引退後の動向がずっと気になっていた。調べるうちに、神奈川県の乗馬クラブで元気にしていて、テレビにも出演しているという情報を得た。それを天間昭一厩舎の谷中公一調教助手に伝えると「是非、取材したい」と話が進み、先方のご厚意もあって、6月23日(月)に再会が実現することとなった。
「本当は乗れれば良いんだけどねぇ。鞍傷なら仕方ないかな。あの馬は背ったれ(背中がへこんでいる)だったから、トレセンにいる時も鞍傷ができやすかったんだよね」。先方からは、鞍傷を治療中のためにキリシマに騎乗するのは難しそうだと聞いていた。谷中助手は残念そうではあったが「元気でいるのは嬉しいよね」と、自分が所属する厩舎の活躍馬との久々の再会に思いを馳せるような表情で、車を走らせていた。
しばしのドライブののちに乗馬クラブに到着すると、洗い場に見栄えのする鹿毛馬が立っていた。父メジロライアン譲りの美しい流星は、間違いなくレッツゴーキリシマだ。
谷中助手が、早速近くに寄っていく。「久し振りだなぁ。2年ぶりかな。覚えてるような気もするんだよね。馬は記憶力が良いから」と、満面の笑みでキリシマの体に触れる。その時、キリシマの表情が変わった。顔をすり寄せたり、時折首を振って谷中助手の言葉に反応しているような仕草をしている。きっと覚えているに違いない。
「相馬に行ったと聞いていたから、その後どうなったかなと気になっていたのだけど、再会できるとは思わなかった。良かった、良かった」谷中助手は何度も首や鼻面をなでる。こちらが「ハンサムな馬ですよね?」と問いかけると、「テレビ馬、スター馬としてはもってこいなんじゃないかな」と相好を崩した。
◆大河ドラマ「八重の桜」に出演 この乗馬クラブに在籍している馬たちは、テレビや映画などに出演したり、福島の「相馬野馬追」にも参加している。キリシマ自身も野馬追に参加し、NHK大河ドラマの「八重の桜」にも出演したという。
そのキリシマも、クラブに来た当初は、環境の変化にピリピリしていた。しかし、「1、2か月ほどで落ち着きが出てきて、今ではノホホンとしています。とても元競走馬には見えなですよねえ」と、スタッフの小松章人さんは、キリシマの普段の様子を教えてくれた。すると谷中助手も「競走馬時代も、普段はとても大人しくて良い子でしたからね」と言葉を継いだ。
乗馬クラブに来て、初めて体験したこともあった。競馬の蹄鉄はアルミ製なので、鉄を熱するという行程はない。だが乗馬用は違う。「熱した蹄鉄を焼き付けるのですが、その時に出る煙を見て、ビックリしていました」(小松さん)
さらに蹄鉄の焼きつけ以上と思われるような、強烈な体験もした。「八重の桜の撮影の時は、太鼓も鳴るし、ヤリを持った人が走っていったりするんですよ。驚かないわけはないですよね。大砲もありますし、後ずさりしていました」
テレビ出演は「八重の桜」を含めてまだ2回だけだが、今後はテレビへの出演回数も増やしていくと聞いた。撮影現場に対応できるよう、様々な工夫をこらし、苦労を重ねて馬たちの調教は行われるそうだ。スタッフの方たちとそれを乗り越え、キリシマや他の馬たちには、どんどん活躍してほしい。馬たちの活躍の場が広がれば、それだけ競走生活を終えた馬の生きる場所も増えるということなのだから。
▲2010年のダイヤモンドSの2着、同年の天皇賞・春にも出走したベルウッドローツェ。同じ乗馬クラブで元気に過ごしている
◆2年ぶりに味わう人馬一体 そんな思いを抱きながら、キリシマの前で取材を続けていると「鞍傷もだいぶ良くなってきましたので、常歩なら乗っても大丈夫ですよ」と、スタッフの守山祐樹さんから、嬉しいお言葉を頂戴した。反動が少なく大人しいキリシマは、鞍傷ができる前は、速歩ができるくらいの初心者も乗せていたという。
馬装が施されたキリシマに跨る谷中助手の口元からは、白い歯がこぼれた。洗い場ではボーッとしていたキリシマの顔が、キリッと引き締まって見えた。ゆっくりと馬を発進させる谷中助手。
「そうそう、この反動なんですよ。体の奥からズシッ、ズシッと来る感じ」。現役当時と変わらぬ常歩をするキリシマの背中を、じっくり味わっているようだ。「当たり前ですけど、さすがですねえ」、人馬一体の様子に、スタッフから感嘆の声が漏れる。
競走馬時代を思い出したのだろうか。一瞬スイッチが入り速歩になりかけたが、谷中助手が優しくなだめて常歩に戻す。こんな時、馬と人はどんな対話をしているのだろうか。馬はどんな気持ちで谷中助手を乗せて歩いているのだろうか。馬は決して嫌がってはいない。競走馬時代に関わった人が乗っているけれど、もうレースで走らなくても良いということをわかっている。妄想かもしれないけれど、キリシマの様子を観察していると、そんな気がしてならなかった。
女性スタッフの佐々木保江さんが「キリちゃんかキリシマと呼んでいます」と教えてくれた。最後にそのキリちゃんと記念撮影をした。守山さん、小松さん、佐々木さん、そして谷中助手と、キリちゃんを囲む皆が、良い笑顔でカメラに収まっていた。
スタッフの方々は皆ソフトで優しく、キリちゃんがとてもリラックスしているのが伝わってきた。たっぷりの愛情を注がれて大事にされている上に、新たな活躍の場も用意されていると知って、本当に嬉しい取材となった。
キリシマの鼻面をなでて、「また絶対に会いに来るよ」。谷中助手は、別れを惜しんだ。乗馬クラブのスタッフやキリシマに見送られて、実に清々しい気持ちで乗馬クラブを後にしたのだった。
▲左から佐々木保江さん、小松章人さん、守山祐樹さん、谷中公一助手
(取材・文:佐々木祥恵)
※厩舎内に入って勝手に餌を与えたり、フラッシュを焚いて写真撮影をしたという事例があったという話を伺いましたので、今回はあえてクラブ名を記載しませんでした。馬はデリケートな生き物です。馬を見学に行く際には、無断で敷地内に入ったり、餌を与えたりせず、必ず施設の方の許可を得て、指示に従って行動していただくようお願い致します。