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相馬野馬追で出会った人馬

  • 2014年08月02日(土) 12時00分


人と馬との距離が近い地域

 先日、5泊6日の東北取材旅行から戻ってきた。
 取材対象は、前半が福島県浜通りの相馬野馬追、後半が青森県八戸市在住の前田長吉の末裔の方々と、十和田市にある馬の文化資料館「称徳館」など、である。

 先週、この稿を書いたのが浜通り入りした金曜日の夜だった。その日は相馬駅に近いホテルをとることができたのだが、土日は空室を見つけることができなかったので、小高郷の騎馬武者、蒔田保夫さんの借り上げ住宅に2泊させてもらった。

 蒔田さんの借り上げ住宅は南相馬市の原町区にある。市役所や、甲冑行列が行われる野馬追通りから徒歩10分ぐらいの便利なところだ。
 蒔田さん一家が震災前まで住んでいた家、というか、蒔田さんの本当の家は同市小高区にある。そこは福島第一原子力発電所から20キロ圏内の旧警戒区域であるため、立ち入りはできても寝泊まりすることができない。
 そのため、彼が所属する小高郷と、隣接する標葉郷の侍たちは、今年も避難先から出陣することになったのである。

 先週記したように、蒔田さんは毎年どこかから馬を数日間借りて野馬追に出場している。はっきりした数字はわかっていないが、野馬追に出場する馬(今年は約450頭)のうち半数ほどがこの相双地区で繋養されている馬で、残りの半数はほかの地区から連れてこられるようだ。

 このあたりをクルマで走っていると、道沿いの家の庭先にトタン壁の小屋があり、そこから馬がぬっと首を突き出す……といった面白いシーンにときおり出くわす。今年、蒔田さんは、学校の先輩の武田昌英さんに手伝いを頼んだのだが、武田さんのように、野馬追に出場した経験があったり、昨年本稿で紹介した一刀さん父子のように家で馬を飼っていたことがあったり、乗馬経験があったりと、馬をあつかえる人があちこちにいる。人と馬との距離が近い地域なのである。

熱視点

蒔田保夫さんの鎧の着付けを手伝う武田昌英さん。


 その武田さんに野馬追の魅力は何かと訊くと、しばらくウーンと唸ってからこう答えた。
「やっぱり、この町にしかない祭りだ、ということかな。子供のころ、野馬追になるとおこづかいがもらえて、原町で1泊して盆踊りをして、仲間と騒いで怒られたりと、いろいろな思い出もありますしね」

 蒔田さんは、今年、去年と同じ厩を借り、出陣した。そこは甲冑競馬や神旗争奪戦が行われる雲雀ヶ原祭場地のすぐ南に位置しており、武田重男さん(前出の武田昌英さんと血縁関係はない)の家の敷地内にあるので「武田厩舎」と呼ばれている。

 かつて武田重男さんは、自身を含め一族の7、8騎で野馬追に参戦していた。
 今年も武田家からひとりの騎馬武者が出陣した。小学校1年生の武田優心(ゆうしん)君である。3歳のときに初陣を飾ったというから、今年で4年目ということになる。

熱視点

騎馬武者行列に参加し、雲雀ヶ原祭場地に入った武田優心君。


 優心君が乗ったのは、サクラという名の20歳ほどの牝馬だった。
 サクラは、優心君の叔母にあたる武田優子さんが、中学1年生の春からずっとかわいがってきた馬だ。今年22歳になった優子さんは、幼稚園の年長組のときから高校3年生のときまで野馬追に出場し、甲冑競馬に参戦したこともあるという。野馬追に出場できるのは20歳までなので、今は、甥の優心君のサポート役を買って出ている。

熱視点

武田厩舎のサクラの馬房。武田優子さんと武田優心君。


 優子さんは3姉妹の三女で、小さいころ、姉たちがひとりで馬に乗っているのを見て羨ましく思っていたという。

「サクラは、野馬追の練習のために父が買ってくれました。でも、野馬追には嫌々出ていたんです。周りからよく『優子、泣くなよ』って言われました」

 と笑う彼女は、サクラの馬体も敷料も馬具も、感心するほど綺麗にしている。

「サクラは私にとって家族のような存在で、野馬追は年中行事のひとつというか、生活の一部になっています」

 そう話す彼女に、なぜ野馬追に関わりつづけるのか訊くと、こう答えた。

「武田家の伝統をつなぐためです」

熱視点

甲冑行列に向けて、サクラの馬体を入念にケアする武田優子さん。


 彼女に馬乗りの手ほどきを受ける優心君は、あえて鐙に足が届かないようにして練習している。馬銜の操作と重心移動だけでサクラを上手にコントロールする姿は、見ていて頼もしい。

 ――優心君が将来ジョッキーになったりしたら、この写真はさらに貴重なものになるかもしれないな。
 そんなことを考えながら、彼の姿を追いつづけた。

 もうひとり、その姿を見るのを私が楽しみにしていた人がいた。
 北郷、宇多郷の侍たちが供奉する相馬中村神社の禰宜、田代麻紗美さんである。

 彼女が甲冑行列に加わったのは、震災があった2011年以来3年ぶりのことだった。
 田代さんが騎乗したのは、07年に中山でデビューしたのち金沢に移籍し、昨年6月まで現役をつづけたバチェラー(父マンハッタンカフェ)である。

熱視点

雲雀ヶ原祭場地に入ったバチェラーと田代麻紗美さん。


 相馬中村神社境内の厩舎にいる馬のなかには昨年秋まで現役だったインプレッシヴデイ(父アポインテッドデイ)もいて、宵乗り競馬と甲冑競馬でともに2着と健闘していた。今年行われた競馬に出走したなかでは唯一の芦毛だったので、覚えている方もいるのではないか。

 野馬追最終日の28日には、相馬小高神社で野馬懸が行われ、ここでも元競走馬たちに会うことができた。芦毛のワンダーバンザイ(父ブラックタイアフェアー)と、鹿毛のコスモフライト(父ロドリゴデトリアーノ)、そしてグッドノイズ(父シニスターミニスター)である。

熱視点

野馬懸で境内の坂を駆け上がるワンダーバンザイ。


 これら3頭は、相馬市柏崎にある持館(もったて)ファームで繋養されている。
 最初に御小人につかまったワンダーバンザイは神馬として奉納され、ほかの2頭はおセリにかけられ(架空のセリ)、10万両ほどの値がついていた。

「こちらは父サンデーサイレンスで、現役時代は5勝したそうです」

 と、セリに先駆け、コスモフライトがアナウンスされたとき、それがジョークであることに果たしてどのくらいの人が気づいただろうか。

 次にセリにかけられたグッドノイズは「シンザンの仔です」と紹介されていた。
 観客にもっと競馬ファンがいれば、結構ウケたかもしれない。

 蒔田さんのところに泊めてもらったのは2日だったが、金曜日から月曜日までお宅にお邪魔したので、最初は吠えていた「チェルシー」というメスのミニチュアダックスも、すっかりなついてくれた。

 日焼け止めが足りなかったのか、顔も手も真っ黒になり、皮がポロポロむけている。カメラを持つ人は、暑くても長袖にしなければダメだと、現地でビデオを撮影していた老紳士に言われた。
 来年、野馬追に行ってみようという人には、日焼け止めとタオル、水筒のほか、長袖と野球帽、虫よけを持って行くことをオススメする。

 相双地区を離れ、八戸入りした翌日、蒔田さんからメールが来た。
 武田優子さんの父で、優心君の祖父である武田重男さんが、野馬懸が行われた日の朝、亡くなったのだという。

 優子さんも優心君も相馬小高神社にいたのだが、野馬追がすべて終わるまで、知人には伏せていたようだ。

「さすが、侍。武田さんは、おれたちを野馬追に送り出してから天国に行ったみたいです」

 蒔田さんからのメールは、そう締めくくられていた。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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