「あの人がいたから今の自分がある」「あの人のあの言葉があったから、ここまでやってこられた」──誰の人生にも“宝物”のような出会いがある。浮き沈みが激しく、つねに“結果”という現実にさらされているジョッキーたちは、そんな“宝物”たちに支えられているといっても過言ではない。ここでは、そんな出会いや言葉でジョッキー人生がどう変わり、そして今の自分があるのかを、ジョッキー本人の言葉で綴っていく。第2弾の3回目となる今回は、酒井学騎手。所属先の二分厩舎の解散を機に、成績が急落。経済的に困窮するまでに至った苦悩の日々、そして、2012年ジャパンCダートで劇的な復活──その過程で支えてくれた人々への感謝と自責の念を込めて、ここまでの騎手人生を振り返る。(取材・構成/不破由妃子)
◆負けず嫌いの同期たちと切磋琢磨
新潟県競馬(2002年に廃止)で厩務員を務めていた父の影響で、幼いころから馬に親しんでいた酒井学。7つ年上の兄・忍(川崎)は、中学卒業後、地方教養センターの騎手課程を受験。酒井も小学校5年生になると、ごく自然な流れで乗馬クラブに通い始め、兄の背中を追いかけた。
▲7つ年上の兄・忍、公営の川崎競馬所属のジョッキー
子供心に、「地方競馬が日の目を見ないのはJRAのせいだ」という思いがあって、勝手にJRAにライバル心を抱いていたんです。だから、地元の競馬を盛り上げるために、最初は地方競馬のジョッキーになるつもりでいたんですが、中学生くらいになると、地方競馬にはないJRAの華やかさや、賞金の違いなど、リアルな部分が見えてきてしまって。ああ、やっぱりJRAがいいなって(笑)。 でも、競馬学校に入ってからも、もっといえばジョッキーになってからも、「JRA関係者には負けたくない」っていう気持ちはずっとありました。同期の(池添)謙一や(太宰)啓ちゃんは、JRA関係者の息子。だから、その二人は、とくに負けたくない存在でしたね。 池添謙一、荻野要、酒井学、白浜雄造、竹之下智昭、太宰啓介、中谷雄太、野崎孝仁、穂苅寿彦。競馬学校14期生は、入学時から誰ひとり脱落や留年をせずに、9人全員がそろって卒業した珍しい期だったという。
ライバル心はありましたが、今でも「14期生は仲がいいな」といわれるくらい、当時から同期の輪のようなものがありました。負けず嫌いの連中ばかりだったので、それが相乗効果になって、切磋琢磨できたような気がします。 デビューしてからもそうです。1年目はある時期から謙一と啓ちゃんと僕が争うようになって、新人賞争いは、週が変わるごとに3人のなかの順位が変わるくらいの接戦でした。そんななか、9月の初めに僕がケガをしてしまったんです。それで結局、2カ月以上休むことになって。新人賞は、38勝を挙げた謙一。啓ちゃんが34勝で2位、僕は25勝で3位でした。謙一は、競馬学校時代から実技では常にトップだった人間。結果的に、アイツが新人賞を獲って納得でしたね。▲「謙一が新人賞を獲ったのは納得でした」
所属先は、栗東・二分久男厩舎。当時、酒井の父が勤めていたのは、新潟県競馬の河内義昭厩舎で、現調教師である河内洋の親戚だった。その関係で二分を紹介され、競馬学校に入学した直後には、すでに二分厩舎に所属することが決定していた。
ちなみに、2年生のときに訪れた厩舎実習時には、現調教師である西園正都がジョッキーとして所属していた。当時から、食事やカラオケに連れて行ってくれたりなど、なにかと酒井の世話を焼いてくれたという。
兄弟子たちに聞くと、昔は相当厳しい先生だったらしく、僕が所属した当時の先生は別人だと(笑)。僕が言うのもなんですが、それこそ“おじいちゃんと孫”じゃないですけど、今振り返ると相当甘やかされていたんだろうと思います。出遅れ(寝坊)についても、「お前、寝るから出遅れるんや。遊ぶんやったら、朝までトコトン遊ばんかい!」って、それが先生の教えでしたから(笑)。 初年度から多くの騎乗機会を与えられ、2年目には、厩舎の年間勝利数の半分以上を挙げるようになっていた酒井。3年目には、二分厩舎の11勝中、9勝が酒井の手綱。二分厩舎では中2週のローテが主流だったこともあり、完全に番組を把握していた酒井の周りには、多くの記者が集まるようになっていった。
◆「営業ってなんやねん」深まる周囲への反発心