▲エイシンプレストン、2001年香港マイル優勝時(撮影:高橋正和)
「俺じゃなかったらもっと勝ってた…」
三度目の挑戦となった香港Cは、明らかに自分のミスで負けたレースだった。道中は、完全に香港の馬に囲まれてしまって、まったく動けない状態だった。それまで、香港マイル、クイーンエリザベス2世Cと2勝していたことで、当然人気だったから、文字通り、“プレストン包囲網”が敷かれていたのだ。直線は、その馬群から逃れようとガンッ! と出していったのだけれど、結果的にデットーリを邪魔してしまって(GRANDERA7着)、騎乗停止になった。でも、北橋先生はレース後、「まぁ負けはしたけど、デットーリを邪魔したんやから大したもんや」とか言って、笑っていた覚えがある。海外で騎乗停止になった弟子を前に、改めて肝の据わった先生だと思った。
ちなみに、北橋先生は海外が大嫌い。香港のホテルでも、窓からずっと船を見ていた。そんな先生を見て、ああ、ホンマに嫌なんやなって(笑)。でも、プレストンのため、弟子のため。自分の好き嫌いは置いといて、我慢してくれてたんだろうなぁと今は思う。
国内のGIは、結局、朝日杯以降、勝つことができなかった。01年、02年とマイルCSで2着だったのも、正直、自分のミスが敗因だと思う。それでも先生は、ずっと乗せ続けてくれた。北橋厩舎で重賞を勝った馬はほかにもいるけれど、あれだけ長い時間をともに戦い、最後までその背中を自分しか知らなかった馬は、プレストンだけなんじゃないかと思う。
03年12月14日の香港C。あらかじめ決まっていた引退レースだった。結果は、1.3秒差の7着。その年の秋のシーズンは、毎日王冠(3着)、天皇賞・秋(4着)とそこそこいい競馬をしてくれたけど、あのときのプレストンは、本当に走れなかった。“馬の衰えって一気にくるんだな…”と、そのときに初めて知った。
最後の香港の帰り、タクシーのなかで和くんとふたりで泣いた。そのレースに負けたからではなく、自分のミスで負けたマイルCSや香港Cなど、最後にいろいろと甦ってきて…。間違いなく、自分が取りこぼしたレースが多かった。スタッフが、