◆「今も確かに息づいている」というポイント
ハープスターとゴールドシップの二強対決に沸いた札幌記念当日、札幌競馬場には4万6097人ものファンが足を運んだ。札幌市の人口は194万2181人。もちろん他地域から来た人も大勢いたわけだが、仮に全員が札幌市民だったとすると、市民の42人にひとりが札幌競馬場に来ていた計算になる。
書いているうちに、それがすごい数字なのかどうかわからなくなってきたが、ひとつ、間違いなく「とんでもない」と言える数字がある。その入場人員が、前年比520.5パーセントだった、ということだ。比較の対象となる前年は函館開催だったのだが、それでも驚くべき数字である。
ちなみに、札幌で行われた2年前の札幌記念当日は3万3571人と、このときも結構な人数が入っていた。ダービー馬ロジユニヴァース、天皇賞馬ヒルノダムール、のちにGIホースとなるハナズゴールといった豪華メンバーが揃ったからだろう。1番人気はダークシャドウ(2着)で、勝ったのはフミノイマージンだった。
GI馬4頭が参戦した今年は、札幌競馬場のリニューアル効果も加わり、エアグルーヴが勝った1997年の札幌記念当日の4万9736人に次ぐ入場者数となった。やはり、客を呼べるのは一流の出走馬なのだ。「ハープ&ゴルシ効果」で、収容人員が4万2000人ほど(フィールドにも入れると5万4000人近く)の札幌ドームにも入り切らないファンが訪れたわけだ。
今回、ハープの勝因のひとつに、古馬より有利な斤量が挙げられている。
ゴルシら古馬の牡馬が57kgを背負ったのに対し、3歳牝馬のハープは52kg。5kgも違っていた。「1kg=1馬身」の差になると言われているだけに、これは大きい。
それが凱旋門賞では、古馬の牡馬は59.5kg、3歳牝馬は54.5kgとなる。5kg差というのは札幌記念と同じだが、ここまで重くなってからの5kg差のほうが、両者が感じる差はさらに大きくなる。
こう言い換えるとわかりやすい。ハープもゴルシも、凱旋門賞では札幌記念より2.5kg重い斤量を背負う。が、52kgから54.5kgになる3歳牝馬よりも、57kgから59.5kgになる古馬牡馬のほうが、負担の増す度合いが大きい。
古馬には、それをはねのけるタフさと完成度が、3歳馬にはアドバンテージをさらに生かす成長力が求められる。
いずれにしても、10月5日の第93回凱旋門賞が、より楽しみになった。
さて、先日、所用で横浜・根岸の馬の博物館に行ってきた。開催中のテーマ展のひとつは「馬射(うまゆみ)」で、馬上から的を射る流鏑馬(やぶさめ)、笠懸(かさがけ)、犬追物(いぬおうもの)を中心とした絵画や古文書などが展示されている。もうひとつは「日本在来馬」で、その歴史や現在の様子などが紹介されている。
私は、入口近くの第1展示室の常設展も好きで、行くたびにそこそこ時間をかけて眺めている。喜べないことだが、特にここ数年、一度見たものをすぐ忘れるようになったので、何度見ても楽しめるのだ。
そこに、先週本稿に記した、明治時代のスタージョッキー・神崎利木蔵のプロフィールが写真付きで展示されていた。
それによると、神崎は明治元(1864)年に兵庫県で生まれ、明治13年ごろ、A.ジャフレー氏専属の厩務員として、厩務員が騎乗する根岸競馬場のレースでデビューしたと思われる。“Dick”の愛称で親しまれ、大正11(1922)年、58歳になる年に亡くなっている。
なお、「力造」「利喜蔵」などの表記も見られるが、「利木蔵」が正しいという。
私が敬愛する日本競馬史上の偉人、保田隆芳氏が生まれたのが大正9(1920)年、最年少ダービージョッキーの前田長吉は3年後の大正12(1923)年に生まれているから、神崎利木蔵とほぼ入れ違いだ。
つまり、保田氏や長吉より、さらにひとつ前の時代の偉人、ということになる。
42歳のときに初代ダービージョッキーとなった函館孫作は明治22(1889)年の生まれだから、彼でも神崎より22歳も下なのである。
昔話をしているようだが、超近未来の話題としてとり上げている凱旋門賞が創設されたのが1920年、つまり、保田隆芳氏が生まれた年のことだった。
――保田先生と凱旋門賞は同い年なのか。
と思うと、納得できるような、意外なような、微妙な感じがする。
その凱旋門賞の草創期、創設の2年後に、私が大好きな吉川英治が憧れた名騎手・神崎利木蔵が亡くなったわけだ。私の感覚では、吉川英治は「昔の人」ではなく、「今の夢や楽しみをくれる人」なので、これもまた不思議な感じがする。
吉川と神崎のエピソードからも、凱旋門賞からも感じられるのは、「古臭くない歴史と伝統」とでも言うべきものだ。
ポイントは、「今も確かに息づいている」ということか。
今週の日曜日、札幌競馬場で武豊騎手がほぼひと月ぶりの復帰戦を迎える。秋にむけて、楽しみである。