
▲親友・柴田政人調教師が語る“福永洋一”とは
努力なくして天才は生まれない
かれこれ50年くらい前の話になるけど、洋一とは馬事公苑時代からの親友でね。最初から「こいつは柔らかいなぁ」と思って見ていたよ。手首の使い方とか、馬への合図だとか、あいつは最初から巧かった。お兄さんの二三雄さんや尚武さんもすごい騎手でね。地方の連中は、洋一より船橋で騎手をやっていた尚武さんのほうが巧かったっていうほど。高知競馬場の近くで育ったというから、そういう環境のおかげなのか、あるいは生まれ持った資質なのか、あの兄弟はみんないいものを持っていたんだろうね。
ただし、野球は下手くそだったよ。同期で野球やソフトボールをよくやったんだけど、みんなが簡単に取れるようなボールも、洋一は取れなかった(笑)。そういうスポーツと馬乗りでは、求められる身体能力が違うんだろうね。
俺たちの期は、確か一人辞めて15人だったんだけど、一発で騎手試験に受かったのは、俺と岡部と石井の3人。洋一を含め、ほかの12人は落第したんだっけな。昔は今より厳しくて、修習期間を終えても、騎手試験で落とされることが多かったからね。だから同期とはいえ、洋一は俺より1年遅れのデビューだった。
とはいえ、デビュー後はトントン拍子。ただ、2年目だったかな、負担重量の不足で長期の騎乗停止になったんだよね。そのときに、開催が始まる前から北海道に行って、洋一は調教ばかりつけてた。大変な時期だったと思うよ。俺たちが競馬をしているときに、ずっと裏で調教をしていたんだから。でもそこで、関東の調教師や厩務員とか、いろんな人と知り合ってね。たくさんのものを吸収した期間だったんじゃないかと思う。今思えば、あの期間を経て、“福永洋一”という男ができあがっていったような気がするね。
スポーツ選手には、みんなその後につながる“起点”があって、洋一にとってそれが、あの北海道だったんじゃないかと思う。意識が変わったきっかけというかね。あのままトントン拍子にいっていたら、騎手として大成するまでにもっと時間がかかったんじゃないかな。
普段は東西に分かれていたけど、北海道ではいつも一緒にいたよ。ゴルフに行ったり、サウナに行ったり、ススキノに遊びに行ったり。レースについて細かいディスカッションもしたし、かと思えば、ふたりで黙々と競馬の資料を読んだり。それも、ひとつの部屋でふたりで寝っころがりながら、ひと言も話さずにね。競馬ブックとか馬社(ホースニュース)が出していた雑誌を読んで、ひたすら研究していた。当時は