北橋先生とは、そういう人なのだ
いよいよ2006年。北橋先生の引退の年がやってきた。もちろん、騎手としてデビューしたときから、自分が30歳を迎える年に厩舎が解散になることはわかっていた。だから、絶対にそれまでには一人前になっていなければいけない──常にそういう意識を持ってやってきたつもりだった。
ただ、その意識が足りなかったことに気づくのは、もう少しあとのこと。瀬戸口厩舎もあと1年残っていたし、なにしろ結果も出ていたから、その時点でフリーになることへの危機感はほとんど持っていなかったと思う。
2006年2月の最終週。北橋厩舎は土曜日の阪神で5頭を使い、そのすべてで自分が手綱を取ったが、残念ながら1勝もできなかった。最後の日曜日は、同じく阪神で3頭。が、なぜかその日、自分は中山で乗っていた(中山記念のカンパニーなどに騎乗)。正直、この日のことはあまり覚えていないのだが、師匠の最後の日に同じ競馬場にいないなんて、今思うとひどい弟子である。
結局、2006年の北橋厩舎は、45戦未勝利のまま最後の日を終えた。そのうち18戦で手綱を取った自分としては、なんだか申し訳ない気持ちがしたものだ。
▲北橋修二元調教師、福永を全力でサポートし続けた
それはそうと、解散の日が近づいても、厩舎のなかに湿っぽい空気が流れることはなかった。なにしろ先生ご自身がサバサバしていたし、スタッフや自分を呼んで最後の挨拶をするような場面もなかったと思う。そんなこんなで自分の目に映った先生は、最後まで感慨に浸ることも、また涙を見せることもなく、サラリとかっこよく調教師生活を終えられた。
引退翌日の月曜日、ホテル宴会場で北橋先生の引退パーティが盛大に行われた。主催は弟子である自分。少なくとも自分が騎手になってからは、調教師の引退パーティが弟子の主催で行われたことはなく、だからというわけではないが、これは相当張り切った。出席者だけ先生に選んでもらい、あとはいろんな人に助けてもらいながら、北橋夫妻の出会いから今日までの再現VTRを作ったり、管理した馬たちの活躍をVTRにまとめたり。正直、先生の引退前後は、そのパーティを成功させることで頭がいっぱいだった。
当日は、馬主さん、厩舎スタッフ、ジョッキー、マスコミの方たちなど、北橋先生を労うために約150人が集まり、華やかで温かいパーティとなった。そこでも先生は終始笑顔で、最後まで涙を見せることなく、会場を去るそのときまで