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メジロラモーヌやダイナアクトレスと同期 ダイナフェアリー逝く

  • 2015年02月10日(火) 18時01分
第二のストーリー

▲晩年は平取町のスガタ牧場で暮らしていたダイナフェアリー


気が強いじゃじゃ馬娘


 1月28日、名牝が天国に旅立った。ダイナフェアリー、32歳。1983年4月30日、北海道白老町にある社台ファームに生を受けた。牝馬3冠(1986年)を達成したメジロラモーヌや、牡馬に混じって毎日王冠(GII・1987年)など重賞を5勝し、ジャパンC(GI・1987年)で3着になる活躍をしたダイナアクトレスと同期になる。競走馬時代は、美浦の鈴木康弘厩舎に所属し、20戦6勝(うち重賞5勝)の成績を残した。

 鈴木康弘調教師が当時の社台ファーム社長の吉田善哉氏を訪ねた時に、放牧地で偶然目に留まった馬がダイナフェアリーだった。

「とても柔らかくて良い感じで走っている馬が目に留まって、社長にその馬について尋ねたんですよ。すると『ファンシーダイナの子ですよ』と。放牧地にたくさん馬がいるのに、どの馬かすぐにわかるのがあの人のすごいところなんですよね。それで気に入ったなら、鈴木さんがやりなさいと言って頂きました」(鈴木師)

 放牧地で偶然目にしたダイナフェアリーは、無事に成長して美浦の鈴木康弘厩舎に入厩し、1995年11月9日の新馬でデビュー戦を飾った。

「この馬は確か、新馬戦以外は全部重賞を使っているんですよね」と師が言うように、2戦目以降、引退するまで出走したレースはすべて重賞だった。GIのビッグタイトルこそなかったが、エプソムC(GIII・1987年)や新潟記念(GIII・1987年)、オールカマー(GIII・1987年)など、5つのタイトルを手にしている。

 中でも師にとって印象深いのが、新潟記念だ。優勝したこともそうだが、レース前日の記者とのやり取りが記憶に残っているという。

「この馬は、大事を取って1、2週間前に競馬場に運ぶと駄目なんですね。性格的なものなのかなあ。新潟記念は日曜日の競馬でしたから、直前の金曜日に輸送して、土曜日は馬場入りせずに運動だけという指示をしたんです。それで朝の涼しいうちに運動するのを確認してからスタンドに行き、他の馬の調教が全部終わって帰ろうとしたら、記者に囲まれまして『先生、ダイナフェアリーは故障ですか?』と聞かれたんですよ。あの当時は皆、馬場に出て来るのがほとんどだったので、レースの前日に運動だけというのは、記者も考えられなかったんでしょうね。ベストの状態で馬を使うには休養も調教のうちだと、その時に記者に話をした記憶がありますよ」(鈴木師)

「とても気が強くて、じゃじゃ馬娘」(鈴木師)だったダイナフェアリーは、負けん気も強かった。

「競馬でも、隣に馬がいると負けん気を出して掛かるので、ポンとハナに立つ競馬が多かったですね。自分で競馬を作っていく馬でしたから、ファンも多かったですね。レースではメジロラモーヌにどうしても勝てませんでしたが、引退してからは、僕に素晴らしい子供たちを提供してくれました」(鈴木師)

 ダイナフェアリーの子供たちは、ダイイチリカー以外はすべて鈴木康弘厩舎に入厩しているが、1番記憶に深く刻まれているのが、サンデーサイレンスを父に持つローゼンカバリーだ。楽勝したセントライト記念(GII・1996年)や、アメリカJCC(GII・1997年)、日経賞(GII・1997年)、目黒記念(GII・1999年)と重賞4勝と活躍した同馬は、安定して走るというよりはムラ駈けのイメージが強く、深いブリンカーがトレードマークとなっていた。

「非常に気性の荒い馬でね、厩(うまや)の中に入れば人を抱きかかえに来ますから。下手をすると命懸けですよね。それほど気性が悪い馬でした。競馬ではちょっといい加減なところがありましたので、とんでもなく大きなブリンカーを着けていました。ダイナフェアリーがじゃじゃ馬娘なら、ローゼンカバリーはヤンチャ息子ですね。あの馬は種牡馬としてフランスに行ったのですけど、当時社台スタリオン(ステーション)の角田(修男)さんが『抱きかかえてこられて、殺されるんじゃないかと思いましたよ』と言うので、『そうそう、あの馬は気をつけなきゃね』という会話をした記憶があります(笑)」(鈴木師)

第二のストーリー

▲セントライト記念を圧勝したローゼンカバリー


放牧地の中ではボス的存在


 前述したローゼンカバリー、青葉賞(GIII・1995年)勝ちのサマーサスピションと2頭の重賞ウイナーを輩出し、最後の出産となったラストノート(セン8・父ステイゴールド・現在は金沢競馬所属)まで、実に16頭(競走馬登録されなかった産駒も含む)の子供たちを送り出してきたダイナフェアリーは、母としても名牝であった。

 ラストノートを出産後に繁殖を退いたダイナフェアリーは、池田町にある新田牧場で功労馬展示事業の助成金を受けて余生を送り始めた。2011年秋には平取町のスガタ牧場に移動し、この地がフェアリーの終の棲家となった。競走馬時代は、負けん気の強いじゃじゃ馬娘だったというフェアリーだが、スガタ牧場では放牧地の中でボス的な存在だった。

「ウチに来た当初は、若馬や競馬を上がってきた馬たちと一緒に放牧をしていました。他の馬にケンカを売っている馬でも、フェアリーには一目を置いていましたね。ボス的な存在で、みんなフェアリーの後をついて歩いていましたよ。だからと言って、他の馬をいじめるということもしないんですよね。貫禄があると言いますか、何か他の馬とは違う迫力があったのでしょうね。馬だけではなく、人間にも悪さをしない馬です。怒るとか蹴るとか、そういうこともしないですし、手がかからない馬でした。ファンが多かったみたいで、訪ねて来てくれる方も結構いましたね」と、スガタ牧場の白瀬善直社長は、在りし日のフェアリーについて教えてくれた。

 昨年の前半までは夜間放牧ができるほど、健康状態も良好だった。「去年の秋頃から、脚元がおぼつかなくなってきましたので、夜間放牧で躓いたら可哀想ですからそれは控えて、昼間はパドックに放牧していました。初めのうちは、仲間のいる放牧地に出たくて鳴いて呼んでいましたけど、そのうち1頭でも大丈夫になりました」(白瀬社長)

 しかし、日に日に脚元は弱ってくる。結局、途中から舎飼が多くなっていた。

「昨年までは放牧地でも、自分で寝起きができていたんですよ。でも馬房の中で寝てしまうと、起きられないのではないかと不安だったようで、ずっと立ちっぱなしでした。自分で調整していたのでしょうね。でも立ちっぱなしでしたから、脚にムクミも出てきてしまいます。かと言って運動もさせられないですしね。ただ食欲はありました。内蔵が強かったのでしょうね。長生きできたのは、それもあったと思います」(白瀬社長)

 そして1月28日、フェアリーはついに自力で起き上がれなくなった。

「この冬を乗り越えて暖かい季節になれば、大丈夫かなと。冬を乗り越えれば、長寿記録に挑戦できるかもしれないとも思っていたんですよ。それが本当に呆気なく逝ってしまいました。残念ですね」(白瀬社長)。その口調からは、無念さが伝わってきた。32歳といえば大往生だが、白瀬社長にとってフェアリーは大きな存在になっていたのだろう。

 フェアリーが亡くなった日、鈴木調教師が管理するセイコーライコウ(牡8)がシルクロードS(GIII)に向けての最終追い切りを行っていた。この2月一杯でおよそ38年間に渡る調教師生活にピリオドを打つ鈴木調教師にとって、セイコーライコウで臨むシルクロードSは最後の重賞となった。(結果は3着)

「どの馬も思い出に残っていますけど、その中でもダイナフェアリーは特に思い出深い1頭と言って良いでしょう。最近は寝たら起き上がれないとわかっていたのか、壁に寄り掛かるようにして立っていたと聞いています。僕にとって最後の重賞出走となったセイコーライコウのシルクロードSが行われる週に、(ダイナフェアリーが)亡くなったということにとても運命を感じますね」。鈴木調教師は、しみじみと語った。

第二のストーリー

 馬と人がともに紡いできた歴史が、競馬を作り上げてきた。ダイナフェアリーと鈴木調教師が紡いできた絆は、フェアリーが鈴木師の元を去った後も、その子や孫たちを通して紡がれてきた。メジロラモーヌやダイナアクトレスなどライバルたちが天に召され、息子・ローゼンカバリーが異国の地で最期を迎えてもなお、フェアリーは生き続けた。そして鈴木師が調教師を引退するその年に、ダイナフェアリーの命の灯は静かに消えた。馬と人との不思議な絆が、ダイナフェアリーの命を支えていたのかもしれない。

(取材・文:佐々木祥恵、牧場写真提供:スガタ牧場)

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北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。

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