「やっちまったって、何をだ」
伊次郎が訊くと、厩務員の宇野が目をしばたたかせた。
「おれが曳いてたトクマルが、川上厩舎のディープ産駒を蹴っちまって……」
――よりによって、嫌なヤツの馬を。
いつも皮肉な笑みを浮かべた川上の顔が浮かんだ。
「相手の怪我は?」
「よ、よくわかんねえ」
「歩様は」
「どうだろう。普通に歩いてたけど……」
ならば問題ないだろう。
「トクマルはどうした」
「センさんに口を持ってもらってる」
「え!?」
そっちのほうが危ないと思った。
センさんこと仙石直人は、徳田伊次郎厩舎で働くベテラン厩務員である。
伊次郎とは別の意味で老けていて、どう見ても70歳過ぎのしょぼくれたジイさんなのだが、実年齢は56歳。唯一の自慢が山口百恵と同い年だということで、馬の扱いにかけては、南関東広しといえども、センさんより下手な者はまずいないだろう。
馬場の出入口付近は広場になっており、隅に馬と人が集まっている。
そのなかにセンさんがいる。後ろ姿のセンさんは、自分の担当馬の曳き手綱を左手、トクマルの曳き手綱を右手に持ち、余った曳き手綱を交差させるように肩にかけている。どちらかの馬が暴れたらセンさんの首が締められるかもしれず、危ない。
宇野が走り出そうとしたので、肩を押さえて制止した。
「痛たたた……」と宇野は泣きそうな目を向ける。
――走るな。おかしな声を出すな。
声には出さなかったが、苛立って宇野の肩をつかむ手に力が入り、もともと上がっている伊次郎の眉がさらにつり上がった。
そのとき、蹴られた馬の脇に立つ川上と目が合った。
「と、徳田君、こっちは被害者なんだから、そんな怖い顔しないでよ」
「地顔です」
と、蹴られたディープ産駒の曳き手綱を持つ厩務員を見た。人を小バカにしたような微笑を口元に浮かべた、川上を若くしたような男だ。
――どうして普段からこんなふうに笑っていられるのだろう。
小さいころから上手く笑うことができずにいる伊次郎にしてみると、存在自体が不思議なタイプだ。
じっと見つめていたのを、睨んでいると勘違いしたのか、その厩務員が、「いや、ぼくはね……」と一歩踏み出した。
すると、彼のブルゾンのポケットからスマホが落ちた。慌てて拾おうとした彼はそのスマホを蹴ってしまい、砂の上をサーと滑って伊次郎の足元に来た。
拾い上げるときに脇のボタンに触れてしまったのか、画面がオンになった。馬に乗った女性騎手の尻をアップにした画像がドーンと出てきた。
「なんだこれは」
「あ、いや、その……」
スマホのカメラで女の尻を追いかけ回していたときに、曳いていた馬が蹴られた、ということか。スマホと厩務員の顔を交互に見た川上は、声のトーンを変えた。
「ま、そうだな。今回はなかったことにしよう。許すよ、うん」
「許す?」
「そ、そうだ」
「誰が、誰を許すんですか」
「まあ、そう難しいことを言うな」
おそらく彼らは、蹴られた馬の購買価格がいくらで、それを傷つけられたからには……と金の話を宇野にしたのだろう。
伊次郎はこの馬が1歳馬のセリで落札されるところをネット中継で見ていた。いわゆる「背ったれ」で、血統ほどには値が上がらなかったが、賢そうな顔をした馬だったので印象に残っていた。
その馬が伊次郎を見つめている。伊次郎が歩み寄ると、曳き手綱を持った厩務員と川上があとずさった。
しかし、馬は静かな目を向けじっとしている。伊次郎が鼻面に右の手のひらをあてると、馬は目をとじて伊次郎の胸に顔を埋めてきた。
――この血統で地方に来たってことは、優しすぎるんだな、お前。
川上と厩務員が驚いたようにこちらを見ている。伊次郎は、ディープ産駒の前髪をクシャクシャッと撫で、トクマルの横に戻った。
子供のころから伊次郎は、人間には怖がられるのに、動物には異様になつかれた。
『猛犬が ヤツの前では ニャアと鳴く』
中学のとき、国語の授業で川柳コンテストのようなものがあり、友人がつくったこの句がものすごくウケていた。ほとんどのクラスメートは、犬が伊次郎を怖がってニャアと鳴くと解釈したようだが、つくった友人は、犬猫ばかりか、野生のカラスやヒヨドリまでなぜか伊次郎になつくことを知っていて、これを詠んだのだった。
「ウェー、クション」と、センさんが、昔のコメディアンのようなクシャミをして自分の馬を曳いて行った。
センさんとすれ違うように、伊次郎が手にしたスマホに尻が写っている女性騎手が馬に乗って近づいてきた。
女性騎手が、伊次郎を見て顔をこわばらせた。尻の写真を伊次郎が撮ったと思ったのか。
脇の下にサーと汗が流れるのを感じながら、もう一度スマホを見た。画面が真っ暗になっている。とっくにタイムアウトしていたようだ。
――ああ、よかった。
しかし、ならばなぜ、女性騎手は顔をこわばらせたのか。まあいい。いつものことだ。
「川上先生、これでいいですか」と伊次郎がスマホを返すと、「もちろんだ。すまなかったね、わざわざ来てもらって」と猫なで声で答えた。
「行くぞ、宇野」
宇野に曳かれるトクマルの歩様はかわいそうなぐらいゴトゴトである。
――待っていろ。もうすぐお前も変身させてやる。
馬道を歩きながら、宇野が、「いやあ、よかった。競馬を使えなくなる損害分を補償しろとか言われたら、どうしようかと思ったよ」と大きく息をついた。
「これからは気をつけろ」
「はいよ。しかし、あいつもスマホを見ながら曳いていたとは……」
「あいつも?」
と伊次郎が横目で宇野を見た。口を滑らせた宇野は青くなっている。厩舎に戻ったらひっぱたいてやろうかと思ったが、まだ我慢の時期だ。
甘い匂いに足を止めると、馬道の脇に植わった梅が小さな白い花をひらいていた。
ここの梅は、どんなに寒くても2月になると必ず咲く。香りは優しく、姿は清楚だが、断固として梅である。今の徳田厩舎にないのは、こういう強さだ。
そんなことを考えながら大仲に戻ると、センさんが伊次郎に封筒を差し出した。
表書きに、ミミズの這ったような字で「辞表」と書かれている。
「センさん、どうして……」
(つづく)
【登場人物】
■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。実は切れ者だが、小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。脱いだらすごいことが脱がなくてもわかる。
■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。
■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎の厩務員。30代前半
■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎の厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。