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■第3回「貧乏」

  • 2015年03月02日(月) 18時01分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員はみなやる気がない。そのひとり、ベテラン厩務員のセンさんが、突然辞表を出した。



「若先生、我ァ、もう辞めるすけ」

 厩務員のセンさんこと仙石直人が、大仲で伊次郎に辞表を差し出した。青森の八戸で生まれたセンさんはいまだに南部弁が抜け切らず、自分のことを「わ」と言う。

「まあ、センさん、そこに座って」
「しゃべることはねえべし」と言ったセンさんの鼻から、ツーッと鼻水が流れた。
「センさん、まず、辞めようと思った理由を聞かせてくれ」
「……」

 センさんは胸の前で腕を組み、天井を見上げた。何かを考えているわけではなく、鼻水がたれないようにしたようだ。

 冷蔵庫に手をかけた若村ゆり子と、大仲の入口に立つ宇野大悟が、耳を澄ましている。このふたりが人の話を真剣に聞こうとすること自体、珍しい。

 それ以上に、たとえ「辞めたい」というマイナスのことであっても、センさんがこうして自分の考えを口に出したのは、10年を超える付き合いで初めてかもしれない。

 暑いとも寒いとも言わない代わり、急いで作業すべきときでも、ダラダラとスローモーションのような動きで仕事をする。カイバの量や配合を間違えて伊次郎の父に叱られても、反省も反発もせず、またダラダラ仕事をして同じミスを繰り返す……それがセンさんだった。

 そのセンさんが、今、生き方を変える意思を示し、厳しい顔をつくっている。いい兆しなのか、それとも、さらなる悪循環への降り口なのかはわからないが、ともかく、彼らはほんの少しだけ、変わりつつあった。

「若先生は、我ァさ、見捨てたんだべ」とセンさんは声を震わせた。
「そう思うか」

 去年の春、伊次郎が調教師になってからは、センさん、宇野、ゆり子の3人の従業員に、担当馬のレーススケジュールと調教内容を伝えるだけで、細かい指示は一切しないことにした。よく言えば全権委任。悪く言えば放置。その結果、徳田伊次郎厩舎は、開業以来一勝もできずにいる。

「我ァは、我ァは……」

 センさんは泣き出した。おそらく、56年の人生で、この種の心細さを味わったのは初めてなのだろう。

「センさん、辞表は預かっておく」
「え?」

 突き返されると思っていたのか、センさんは驚いたような顔をした。

「辞める前に、ひとつだけ頼みを聞いてくれないか」
「……な、なんだ」
「ここで診察を受けてほしいんだ」

 と伊次郎は、総合病院のパンフレットと一通の手紙をわたし、つづけた。

「学生時代の友人が医師として勤めている病院でね。この手紙は彼宛ての、おれからの紹介状のようなものだ」
「なして、我ァが病院に……」
「ずっとセンさんを見ていて、気になることがあってね。費用はこっちで持つ」
「……」
「今から行ってもいいし、明日でもいい。とにかく、なるべく早く行ってくれ」

 センさんは黙って頷き、大仲から出て行った。

 伊次郎は、センさんから預かった辞表を、そっとブルゾンの内ポケットに仕舞った。ゆり子と宇野が表情を強張らせている。彼らも、伊次郎がセンさんを慰留し、辞表を破り捨てると思っていたのだろう。

 今、ゆり子と宇野は、徳田厩舎が崩壊する音を聞いているのかもしれない。

 6馬房で8頭の管理馬。オーナーはそれぞれ異なっており、8人いる。ただでさえ進上金がほとんど入らないうえに、数人の馬主は預託料の支払いが滞りがちだ。

 貧すれば鈍する。傍から見たら、徳田厩舎はその典型だろう。だが、鈍してはいない――少なくとも、伊次郎は。

 伊次郎は、小さいころから貧乏暮らしを強いられてきた。義理堅い性格だった父が、預託料をきちんと払えないような馬主から預かった馬も管理しつづけ、そのしわ寄せが家族の生活に来ていたのである。

「貧乏は仕方がない。貧乏くさくなければいいんだ」父はそう繰り返した。
「創造的な仕事をする人間は3つの要件を備えている。若くて、貧乏で、孤独であることだ」

 昔の偉人の言葉として、それも何度も聞かされた。正しくは、3つ目は「孤独」ではなく「無名」らしいが。

 貧乏暮らしが長かった伊次郎は、貧乏の引きの強さを思い知らされていた。貧乏が生み出す負のスパイラルから抜け出すにはとてつもないパワーを必要とする。

 ――どうやら、今がそのパワーを出すべきときだな。

 1年も好きなようにやらせれば膿が出切るだろうと思っていたのだが、膿が出ているうちに重症化してきた。予定を前倒しし、1カ月でも2カ月でも早くメスを入れないと手遅れになる。伊次郎は、父のような「貧乏肯定派」ではなかった。

「ゆり子、そこに座れ」

 伊次郎は、向かいの椅子を顎で指し示した。ゆり子は不貞腐れたように顔をしかめ、ドカッと腰を下ろした。赤い髪。細い眉。いつも不機嫌そうな目。筋骨隆々の伊次郎が、脱がなくても「脱いだらすごい」ことがわかるように、彼女は、言われなくても元ヤンキーだとわかる。

 ――さて、何から話そうか。

 と考えながら、伊次郎は、手のひらで机の上のゴミを払った。

 そのとき、「バン!」と思いのほか大きな音が出た。ゆり子が全身をビクリとさせた。伊次郎自身もその音に驚き、「おっ」と声が出た。それを「おい」と聞き違えたのか、ゆり子は、斜めにしていた体を正面に向け、両手を膝の上に乗せた。

 ふと気づいたら、いつも攻め馬を頼んでいる騎手の藤村も大仲の入口に立ち、硬い表情でこちらを見つめている。伊次郎と目が合うと「すみません」と頭を下げた。

 大仲が異様な雰囲気になってしまった。

 ――さあ、どうしたものか。

 と、考えれば考えるほど、伊次郎のこめかみに太い血管が浮き上がり、恐ろしい形相になっていく。

 伊次郎が考えに集中するときの呼吸法は、胸いっぱいに吸い込んだ息をゆっくりと吐き出していくものだ。肺活量が8000cc以上ある伊次郎は、「フーッ」と1分以上かけて息を吐き出す。それが他人には獣の唸りに聴こえる。

 窓から見える梅の木にとまったヒヨドリが「ピーッ!」とやかましく鳴いた。伊次郎以外の者たちには、それは伊次郎の怒りの爆発開始を告げるホイッスルのように響いた。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。実は切れ者だが、小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。脱いだらすごいことが脱がなくてもわかる。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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