先月、えんぶりを見に八戸に行った帰りに、三沢の寺山修司記念館を訪ねた。ここで展示を見るのはグリーンチャンネル特番のロケを含めて4度目か5度目だろうか。だいたいプライベートで行っているので、記帳もせず展示を眺めただけで帰ってきてしまうのだが、今回は、帰り際、佐々木英明館長にご挨拶しようと事務所に訊いたら、見回りのため屋外に出ているとのことだった。
レンタカーを停めた駐車場で、久しぶりに佐々木館長と話すことができた。東京競馬場で2年前の秋に寺山と虫明亜呂無の特別展が催されたことを喜んでいた。その年、2013年は東京競馬場の開設80周年であり、寺山の没後30年でもあった。私がロケで佐々木館長にインタビューしたのはその前年、2012年の夏だったから、ほぼ2年半ぶりの再会だった。
寺山は、贔屓にしていた吉永正人が乗るミスターシービーがダービーを勝つところを見届けることなく、1983年5月4日に亡くなった。実は彼は、その年から、優駿エッセイ賞の選考委員になることが決まっていた。
夫人の九條今日子さんも、昨年の優駿エッセイ賞に寺山修司特別賞が設けられたため、同賞の選考委員になった。しかし、選考委員会に出ることなく、昨年4月30日に世を去ってしまった。
同じ賞の選考委員をつとめることが決まった年の、皐月賞とダービーの間の同じような時期に、ともに亡くなったのだ。なんとも残念であると同時に、不思議なものを感じさせる。
……と、先週、ここまで書いたところで、後藤浩輝騎手の訃報が飛び込んできた。
それからの時間はなんだかほつれた糸のようで、順序立てて思い出そうとしても、どっちが先で、どっちがあとに起きたことだったか、まだ混乱している。
土曜日は行く気になれなかったが、日曜日は中山競馬場に行った。地下の献花台で記帳してから、いつもどおりパドックで出走馬の馬体重を新聞に書き写し、馬の歩様や表情、発汗、落ち着きなどを印をつけながらチェックし……と、この30年近く、ずっとつづけてきたのと同じことをした。
その日は3月1日だった。
――あと10日で東日本大震災から4年か。
ふとそう思った。震災からひと月も経たないうちにドバイに行き、東京に戻った夜、首都高から見える都内が暗くて土地勘が狂いそうになったことなどが思い出された。
ドバイでも、帰国後も、多くの関係者が、
「こんなときに競馬をしていいのだろうか、と考えてしまう」
と漏らした。
それがいつしか、みな「こんなときだからこそ競馬をするのだ」と自身に言い聞かせるようになった。
競馬は金を生む。JRAや関係者は被災地に巨額の寄付をした。
それだけではなく、人々が笑顔を失う非常時だからこそ、ドキドキわくわくハラハラできるレジャーを、極力通常どおりに実施することで、日常の感覚をとり戻すきっかけをつくることができるかもしれない。
あのときの感覚と似ているところも異なるところもあったが、ともかく私は、先週末、
――こんなときだからこそ、いつもどおりに競馬をしよう。
と馬券を買った。
私たちは「後藤浩輝のいない競馬」を受け入れなければならない。そのうえで、彼が残してくれたものを大切にし、伝えていきたいと思う。
さて、今、私の手元に「高野山教報」というタブロイド紙のような体裁の、真言密教の聖地・高野山の機関紙が数部ある。月2回発行のこれらを送ってくれたのは、「2014優駿エッセイ賞」のグランプリを受賞した中島龍太郎さんだ。授賞式が行われたジャパンカップの日にお会いし、以来、ときどきメールのやりとりなどをするようになった。
中島龍太郎さんは高野山金剛峯寺の僧侶で、僧名を「龍範」と言う。『優駿』2014年12月号に受賞作「競馬好きのお坊さん的幸福論」が掲載されたので、読まれた方も多いと思う。
「拙僧」という一人称で意表をつき、自身と競馬との切っても切れない関係をテンポのいい文章でつづっている。競馬で負けた日曜の夜、「サザエさん」のテーマを聴くときの気持ちの描写などで「そうだよなあ」と共感を呼びながら、しっかり笑いもとる。
「上手すぎて、彼にグランプリを獲らせるのは悔しい気もするね。わかっていながら術中にはめられたみたいでさ」
選考委員会ではそうした声も上がるほどの表現力で、そこにはどこか、手慣れたものを感じさせる何かがあった。
それがなんなのか、中島さんが「高野山教報」に不定期連載しているコラム「入唐見聞録」を読んでわかった(彼は中国大陸に長期滞在していた)。ひとつは台湾野球について記した「球は霊なり」というタイトルのものだ。台湾ドル紙幣に野球少年が印刷されている話から入り、WBCでの台湾チームのこと、日本の統治時代に野球が伝えられたこと……と進み、台湾で伝説になっている日本人監督・近藤兵太郎と、近藤が率いた嘉義農林学校の野球部を描いた映画「KANO」の話へと進んでいく。この映画は、台湾人の持つ「飲水思源」の精神に満ちているという。「水を飲むときは、井戸を掘った人の苦労を思って感謝する」という気持ちだ。さらに、「恩義は岩に刻み、恨み辛みは波打ち際の砂上に記すべきであることを、台湾は教えてくれました」と響く言葉をつづけ、この文章を現象リポートにとどめず、「この著者が、今、これを書く意味」が明確なエッセイにしている。
中島さんは、自分の発した言葉を、相手がどんなふうに咀嚼、嚥下し、栄養として体内にとり込んでいくのをよしとするかまで考えながら文字にしていくという鍛練を、普段から繰り返していたのだ。
普通、文筆をなりわいとしていない人は、自分の言いたいことばかりが先に来て、受け手(読者)の都合などお構いなしになりがちなのだが、この人は、「自分の投げた球(言葉)がどう受けとめられるか」をとても大切にしている。それが優駿エッセイ賞の選考委員に「プロっぽすぎる」ように感じさせたわけだが、僧侶の業務として言葉を扱い、コラムを持っているのだから、プロと言っていいのである。
優駿エッセイ賞の選考委員会が終わってから知ったのだが、中島さんのお父様は、かつて『週刊少年ジャンプ』で『アストロ球団』などの作品を描いていた、漫画家の中島徳博氏だという。徳博氏は、中島さんが同賞を受賞する少し前、昨年8月28日に亡くなった。64歳と、まだまだお若かった。
選考委員会で、古井由吉さんが、「この人の説教は面白いだろうねェ」と笑っていた。私もそう思う。
今年は高野山に弘法大師空海の手で密教の道場がひらかれてから1200年目の節目だという。4月2日から5月21日まで「高野山開創1200年大法会」が執り行われるとのことなので、大阪杯を見に行くとき、余裕があれば足を運んでみたい。
こうして興味や行動範囲がひろがるきっかけをつくってくれるのも、競馬という懐の深い競技ならではの魅力である。
後藤騎手は、自身もそうした楽しみを享受しながら、私たちを楽しませるエンターテイナーだった。
今週も、いつもどおり、競馬場に行って、楽しみたいと思う。