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馬たちが経験した東日本大震災(2) ―41頭のうち39頭が津波の犠牲に

  • 2015年03月10日(火) 18時01分
第二のストーリー

▲ベルシーサイドファーム(現ベルステーブル)代表の鈴木嘉憲さんが語った、牧場再開までの苦難


(つづき)

馬のためにも心を砕いてくれている人がいた


「あの時は、判断が非常に難しかったんですよね」

 と、宮城県名取市にあった乗馬クラブ、ベルシーサイドファーム(現ベルステーブル)代表の鈴木嘉憲さんは、東日本大震災が起こったあの日を振り返る。

「チリ沖の地震(2010年)の時にも、津波警報が出ていたのですが、ほとんど波は来なかったんですよ。それもあって、僕も正直、波が来ても膝上くらいで、少し洪水のようになって、建物までは流されないだろうと考えていました」

 しかし、津波は信じられないほどの猛威をふるい、沿岸の街をのみこんでいった。津波到達の予想時間よりも速く到達したと、鈴木さんは記憶している。

「馬を全部外に放してしまって、仮に津波が来なかった時に、馬と車がぶつかったり、人を轢いてしまったということになったら、それも問題になると。じゃあ馬運車でどこかに運ぶにも、1度に5頭しか積めませんし、オーナーさんがついている馬が多かったので、積み込む順番も問題になります。もう本当にいろいろな手段を考えましたが、最終的にできることは津波が来ないように祈るしかできませんでした」と、苦しい胸の内を明かした。

 結局クラブは流され、馬たちも流された。当時クラブにいた研修生3人は助かったが、60代の厩舎長がいまなお行方不明となっている。

「僕が自宅や弟の家を回って家族を迎えに行っている間に、地震の揺れで倒れた消化器の泡にまみれた子犬を女性の研修生が、松林の横にある洗い場で洗い流していたんです。普段はザバンザバンと波の音がするのに、その時はシーンとしていたと聞きました。その静かな中で、カサカサカサという、それまで聞いたことのない音がしたというんです。それが津波でした。津波が堤防を越えてシューッと入ってきたんです。『津波が来た!』と、女性の研修生がみんなに声掛けをして、厩舎の扉を開けられるだけバンバン開けて。馬にしたら、何が起きたかわからなかったでしょうね。まさか津波だとわからないでしょうし。

 海が近かったから、かえって早く津波に気付いたんです。車のエンジンをかけておくように指示してあったので、みんな軽トラに乗って逃げました。道路に出たら、逃げてくるお婆ちゃん2人に出会って、このままだと津波にのまれると軽トラの荷台にお婆ちゃんを乗せて。その時は僕の家の方に逃げて合流しようとしていたのですが、空港に行きなさいというお婆ちゃんの言葉で、右に曲がらずに左に曲がった。右に曲がってたら死んでいたでしょうね。空港のターミナルから30mくらいのところの橋が地震の影響でズレていてそこに車を置いてみんなターミナルまで走ったんです」(鈴木さん)

 しかし、厩舎長は忘れ物に気づき、車に取りに帰った。それを最後に厩舎長の行方はわからなくなった。遺体を確認していないため、いまだに実感が湧かないと鈴木さんは言う。老婆に会わなければスタッフ全員助からなかったかもしれない、忘れ物を取りに戻らなければ、スタッフ全員助かっていただろう…。震災当日に起きた想像を絶する話に耳を傾けながら、運命の分かれ道という言葉が頭をよぎった。

 津波にのまれながらも九死に一生を得たアドマイヤチャンプとトニーザプリンスの様子を毎朝確認し、その後は行方不明の馬を探す。そんな日々がしばらく続いた。

「見つからない日もあれば、一気に何頭か見つかる日もありました。木に引っ掛かっていた馬もいましたし、車に挟まれていた馬もいました。人家の1階で死んでいた馬もいました。仙台空港の滑走路まで流されたのでしょうね。滑走路で亡くなっていた馬がたくさんいました。だから僕らは、1年くらい仙台空港からは飛行機には乗れませんでした。何となく馬たちを踏んでいる気がして…。だから乗る時は山形空港を利用しました」(鈴木さん)

 見つけた馬の顔にかぶっている砂をよけて確認したり、時には生産地を表す焼印で馬を特定することもあった。

 最後の1頭がなかなか見つからなかった。

「空港の滑走路を囲ってある柵の近くに松林があって、そこに瓦礫がたくさん積み重なっていました。その瓦礫の下にいたので、時間がかかったんです。チャールズザグレイトという馬でした」(鈴木さん)

 39頭の馬たちの亡骸を発見するまで、39日間という日数を要した。ここに至るまで、自衛隊をはじめ、空港で作業をしていた米軍や建設会社の人々とも連絡を取り合った。馬が亡くなっている場所には、青いリボンを印としてつけてくれていた。皆、ギリギリの状況の中で、馬のためにも心を砕いてくれている人がいた。表には出てこない、胸を打つエピソードが数多くあることを、今回の取材で改めて知った。

震災を経て変わった、馬に対する考え方


 寄せては返す波の音が聞こえる海のそばの乗馬クラブは、跡形もなく流されてしまった。それでも鈴木さんは、4月半ば頃から動き始めた。

「どうしても馬の仕事をやりたかったんです。どうやって食べていこうかと考えた時に、観光乗馬から始めようと思い立ちました。仙台市内から車で40分くらいの場所じゃないと、落ち着いた時に商売にはならないのではないかと考えました。探すのに50軒くらい電話をかけました。でも馬よりも皆人間で精一杯ですからね。遠ければあったんですけど」

 だが鈴木さんは、仙台市内から車で40分圏内にこだわった。「40分で行ける範囲を、地図上にぐるっと円を描きました。この中で絶対に探すぞって」

 そんな時に、現在の場所、秋保森林スポーツ公園が目に留まった。「今は冬季休業期間ですけど、シーズン中は人の出入りが多いんですよ。それで電話をしてみると、丁度テニスコートが8面あいているという返事でした。5月くらいだったと思います。実際に足を運んでみると、地面が平らで、水も近くにあって、電気も通っている。乗馬クラブには打ってつけの場所でした。園長さんが親会社に話を通してくれて、7月頭に契約することができました」(鈴木さん)

 それからは、大急ぎでクラブ作りが始まった。福岡県馬術連盟からの寄付されたテント屋根の厩舎が立ち、テニスコートは馬場に生まれ変わった。仮設の厩舎は、それを扱っている徳島の業者が組み立てにやって来てくれたが、その他は乗馬クラブの会員さんが手伝ってくれた。

「津波で亡くなった馬たちの魂が戻ってくる場所がないと困ると思って、どうしてもお盆までにオープンさせたかったんです」という鈴木さんの願いが叶って、2011年8月13日にベルシーサイドファーム、改め、ベルステーブルがオープンしたのだった。

「乗馬クラブなど馬関係の方から頂いた義援金を使わせて頂きましたし、会員さんなど皆で協力し合ってクラブができました。ホント、馬に助けられていると言いますか、馬で繋がっているなと思います。だから自分のクラブですけど、気持ち的にはそうじゃないんですよね。いろいろな人の思いや気持ちが入っていますから。その分、皆の輪が強くなりましたね」(鈴木さん)

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▲2011年8月13日にオープンしたベルステーブル


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 クラブハウスには、津波に流されて亡くなった39頭の馬たちと、3頭の犬の名前が記されたプレートが置いてある。中にはかつて競走馬として走っていた馬も含まれている。

 その中にエスパーという馬名が記されている。

「エスパーは、3月10日が誕生日でちょうど30歳だったんです。僕が6歳の時、弟が3歳の時からずっと一緒にいた馬でした」(鈴木さん)

 馬の亡骸は、残酷ではあるが産業廃棄物として処分される決まりになっていた。その際、蹄鉄を脚から外さなければならないのだが、鈴木さんの弟で装蹄師の智明さんにとっては、この作業が、それまでで一番辛い仕事となった。特に幼い頃から20年以上一緒に過ごしたエスパーの蹄鉄を外す時には、どんな思いが頭をよぎったのだろうと、想像するだけで胸が痛んだ。

 エスパーも元競走馬だったが、他にもかつて競馬場で走っていた元競走馬が在籍していた。その一部を挙げると、クロミは、競走馬名コンバットキック(享年6・父タヤスツヨシ)、チェルトは、競走馬名ウクレレ(享年5・父ジェニュイン)。ブシドウは、競走馬名アオイブシドウ(享年8・父バトルライン)、ローツェは競走馬名メンフィスシチー(享年15・父パレスダンサー)、そしてテンホー(享年25・父ノーザンテースト)。この馬は競走馬名も同じだった。

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▲亡くなった39頭の馬たちと、3頭の犬の名前が記されたプレート


 再び、3月11日が巡ってくる。

「どんなに時が経っても、3月11日になるとあの日に戻ってしまうんです。20年後も30年後もきっとそうだと思います」という鈴木さんの言葉が重かった。だが、震災を経て、変わったことがある。鈴木さんの馬に対する考え方だ。

「以前は41頭馬がいましたが、今は20頭、多くて25頭くらいまでで、これ以上頭数を増やそうとは思っていません。1頭1頭にちゃんと向き合って、時間を割きたいという気持ちがあるからです。競馬から上がってきた馬でも、乗馬として生きていく可能性は決してゼロではないと思うんです。ですから、何とかして第二の馬生を過ごさせてやりたいと。そういう気持ちが、震災の後、ものすごく強くなりました。

 それに以前は(自分が)死にたくないから検査行かなきゃとか(笑)、よく思っていたんですけど、今はいつ死んでもいいとデンと構えて仕事に打ち込めるようになりました。自分が死んだら、まず皆(津波で亡くなった馬たち)に謝りに行こうと決めていますから。怖いものがなくなったんです」

 鈴木さんの声は明るかった。と同時に、あの日、天に昇っていった馬たちの魂のためにも、今目の前にいる馬としっかり向き合っていくという強い決意を感じたのだった。(つづく)

(取材・文・写真:佐々木祥恵)



ベルステーブル
〒982-0241
宮城県仙台市太白区秋保町湯元字青木33-1
森林スポーツ公園内
TEL:080-5733-2611
火曜日定休

ベルステーブルHP
http://www.bell-stable.com/
ベルステーブル
https://ja-jp.facebook.com/bellstable

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北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。

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