【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。厩舎改革を決意した伊次郎は、辞表を出したベテラン厩務員のセンさんと、元ヤンキーのゆり子と初めてじっくり話をした。そして、ぐうたら厩務員の宇野と話しはじめた。
ぞっとするほど暗い光を宿した宇野の目に、伊次郎は驚いていた。
――こいつ、こんな目で人を睨むことがあるのか。
そもそも、こうして宇野と目を合わせるのは初めてかもしれない。いつもと顔が違って見える。よく知っているつもりになっていた「宇野大悟」とは別の男と対峙しているかのような気さえしてきた。
宇野はまだ伊次郎を睨んでいる。妻の美香のことを持ち出され、感情の揺れが表に出ないよう、こうしているのか。
伊次郎は、子どものころからにらめっこで負けたことがなかった。笑うことができないのだから、負けようがない。わざと負けようと笑顔をつくろうとしても、相手が先に吹き出して勝負にならなかった。
時間にしたら1分あるかどうかだろうが、これだけ長く自分を睨みつける者に会ったのはいつ以来だろう。そう思うと、少しずつ爽快な気分になってきた。
――いい度胸してるじゃねえか、宇野。
と、腕を組み直したら、何を勘違いしたのか、宇野が全身をビクッとさせた。
「お、脅しはなしだぜ、先生……」
やはり、こいつはこの程度か。
「どうしておれがお前を脅さなきゃならないんだ」
「い、いや……」
「脅されるようなネタでもあるのか」
「……」
「どうなんだ」
「あ、あんたは、そうやっていつも人を追い詰める」
「そう感じるのは、やましいことのあるヤツだけだ」
「うぐっ……」
宇野は言葉に詰まった。
「今、ここに美香さんを呼んでこい」
美香は、宇野の妻である。けっして美人ではないが、気立てのいい、よくできた女房だ。
「いや、あいつはちょっと……」
「いるんだろう」
と伊次郎が天井を指さすと、宇野は首を横に振った。伊次郎も従業員も、みな厩舎の2階の住居で暮らしているのだが、美香はどうしたのか。宇野が言った。
「出て行っちまった」
「いつだ」
「先月の終わりごろ、かな……」
「『かな』ってどういうことだ」
「いや、日にちまでは覚えてなくて……」
「お前、よそで寝起きするようになったから、わからないんじゃないのか」
「うぐっ……」
宇野はさっきとまったく同じ反応を示し、目を泳がせた。こいつはただバカなだけで、案外正直なのかもしれない。
「それで遅刻ばかりするようになったのか」
「すみません」
「また女か」
「……はい」
宇野の周りには、いつも不思議なくらい女がいる。仕事はできない。だから地位も金もない。顔だって、騎手の藤村などに比べたら、どこもいいところはない。にもかかわらず、キャバ嬢風の女と手をつないでいただの、ほかの厩舎の娘を泣かせただのと、女性関係の噂が絶えなかった。食堂のおばちゃんたちにも人気があり、よく何かをおまけしてもらっている。彼女たちに言わせると、放っておけないところがあるらしい。
美香は、そうしたことなど気にしていないように見えたが、とうとう堪忍袋の尾が切れてしまったのか。
伊次郎は言った。
「美香さんとはどうするんだ」
「もう……別れました」
「何ィ?」
厩舎地区に誰が住んでいるかを主催者に届けなければならず、そうした手続きのうえでも困るのだが、追及したところでどうなるわけでもないので黙っていた。
「これで、いいですか」と逃げようとする宇野に、伊次郎は訊いた。
「ほかに隠していることはないか」
「……」
黙りこくった宇野の目に、また気味の悪い光が浮かんだ。
美香が出て行ったのは、こいつの女性関係だけが原因だったのだろうか。もうひとつ、よからぬ噂を耳にしていたのだが、従業員のプライベートにどこまで立ち入っていいものか、訊くのがためらわれた。
ひとまずこれで切り上げることにし、話題を変えた。
「きょうから、うちの厩舎でも午後の曳き運動をする。ゆり子もいいな」
宇野は不服そうに頷いた。シェリーラブの馬房にいたゆり子にも聞こえていたようだ。伊次郎はつづけた。
「それと、来月から進上金のうち、担当者のとりぶんは3パーセントにして、残りの2パーセントはプールしてみんなで分けるようにする」
宇野もゆり子も何も言わない。このところずっと進上金など入っていないので、どうでもいいと思ったのだろう――。
翌日、競馬場から歩いて5分ほどの定食屋で夕食をとり、何気なく厨房の奥に目をやった伊次郎は、その場に立ち尽くした。
「お、お客さん、何か不手際でも……」と店主らしき親父がモミ手で訊いてきた。
「あの人は――」と、伊次郎が指さした先で皿を洗っていた小柄な女が顔を上げた。
やはり、そうだった。宇野の妻、いや、妻だった美香だ。
「せ、先生……」
美香は、油汚れのついた皿を手にしたまま、ぽろぽろと泣き出した。
(つづく)
【登場人物】
■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。実は切れ者だが、小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。脱いだらすごいことが脱がなくてもわかる。
■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。
■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。
■宇野美香(うの みか)
宇野の(元)妻。
■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。
■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の調教を手伝っている騎手。顔と腕はいいが、チキンハート。