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■第5回「女」

  • 2015年03月16日(月) 18時00分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。厩舎改革を決意した伊次郎は、辞表を出したベテラン厩務員のセンさんと、元ヤンキーのゆり子と初めてじっくり話をした。そして、ぐうたら厩務員の宇野と話しはじめた。



 ぞっとするほど暗い光を宿した宇野の目に、伊次郎は驚いていた。

 ――こいつ、こんな目で人を睨むことがあるのか。

 そもそも、こうして宇野と目を合わせるのは初めてかもしれない。いつもと顔が違って見える。よく知っているつもりになっていた「宇野大悟」とは別の男と対峙しているかのような気さえしてきた。

 宇野はまだ伊次郎を睨んでいる。妻の美香のことを持ち出され、感情の揺れが表に出ないよう、こうしているのか。

 伊次郎は、子どものころからにらめっこで負けたことがなかった。笑うことができないのだから、負けようがない。わざと負けようと笑顔をつくろうとしても、相手が先に吹き出して勝負にならなかった。

 時間にしたら1分あるかどうかだろうが、これだけ長く自分を睨みつける者に会ったのはいつ以来だろう。そう思うと、少しずつ爽快な気分になってきた。

 ――いい度胸してるじゃねえか、宇野。

 と、腕を組み直したら、何を勘違いしたのか、宇野が全身をビクッとさせた。

「お、脅しはなしだぜ、先生……」

 やはり、こいつはこの程度か。

「どうしておれがお前を脅さなきゃならないんだ」
「い、いや……」
「脅されるようなネタでもあるのか」
「……」

「どうなんだ」
「あ、あんたは、そうやっていつも人を追い詰める」
「そう感じるのは、やましいことのあるヤツだけだ」
「うぐっ……」

 宇野は言葉に詰まった。

「今、ここに美香さんを呼んでこい」

 美香は、宇野の妻である。けっして美人ではないが、気立てのいい、よくできた女房だ。

「いや、あいつはちょっと……」
「いるんだろう」

 と伊次郎が天井を指さすと、宇野は首を横に振った。伊次郎も従業員も、みな厩舎の2階の住居で暮らしているのだが、美香はどうしたのか。宇野が言った。

「出て行っちまった」
「いつだ」
「先月の終わりごろ、かな……」

「『かな』ってどういうことだ」
「いや、日にちまでは覚えてなくて……」
「お前、よそで寝起きするようになったから、わからないんじゃないのか」
「うぐっ……」

 宇野はさっきとまったく同じ反応を示し、目を泳がせた。こいつはただバカなだけで、案外正直なのかもしれない。

「それで遅刻ばかりするようになったのか」
「すみません」
「また女か」
「……はい」

 宇野の周りには、いつも不思議なくらい女がいる。仕事はできない。だから地位も金もない。顔だって、騎手の藤村などに比べたら、どこもいいところはない。にもかかわらず、キャバ嬢風の女と手をつないでいただの、ほかの厩舎の娘を泣かせただのと、女性関係の噂が絶えなかった。食堂のおばちゃんたちにも人気があり、よく何かをおまけしてもらっている。彼女たちに言わせると、放っておけないところがあるらしい。

 美香は、そうしたことなど気にしていないように見えたが、とうとう堪忍袋の尾が切れてしまったのか。

 伊次郎は言った。
「美香さんとはどうするんだ」

「もう……別れました」
「何ィ?」

 厩舎地区に誰が住んでいるかを主催者に届けなければならず、そうした手続きのうえでも困るのだが、追及したところでどうなるわけでもないので黙っていた。

「これで、いいですか」と逃げようとする宇野に、伊次郎は訊いた。
「ほかに隠していることはないか」
「……」

 黙りこくった宇野の目に、また気味の悪い光が浮かんだ。

 美香が出て行ったのは、こいつの女性関係だけが原因だったのだろうか。もうひとつ、よからぬ噂を耳にしていたのだが、従業員のプライベートにどこまで立ち入っていいものか、訊くのがためらわれた。

 ひとまずこれで切り上げることにし、話題を変えた。

「きょうから、うちの厩舎でも午後の曳き運動をする。ゆり子もいいな」

 宇野は不服そうに頷いた。シェリーラブの馬房にいたゆり子にも聞こえていたようだ。伊次郎はつづけた。

「それと、来月から進上金のうち、担当者のとりぶんは3パーセントにして、残りの2パーセントはプールしてみんなで分けるようにする」

 宇野もゆり子も何も言わない。このところずっと進上金など入っていないので、どうでもいいと思ったのだろう――。

 翌日、競馬場から歩いて5分ほどの定食屋で夕食をとり、何気なく厨房の奥に目をやった伊次郎は、その場に立ち尽くした。

「お、お客さん、何か不手際でも……」と店主らしき親父がモミ手で訊いてきた。
「あの人は――」と、伊次郎が指さした先で皿を洗っていた小柄な女が顔を上げた。

 やはり、そうだった。宇野の妻、いや、妻だった美香だ。

「せ、先生……」

 美香は、油汚れのついた皿を手にしたまま、ぽろぽろと泣き出した。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。実は切れ者だが、小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。脱いだらすごいことが脱がなくてもわかる。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。

■宇野美香(うの みか)
宇野の(元)妻。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の調教を手伝っている騎手。顔と腕はいいが、チキンハート。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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