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■第8回「変化」

  • 2015年04月06日(月) 18時01分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は、スタッフの意識を変えるべく動き出した。手始めに病院に行かせたベテラン厩務員のセンさんが5日ぶりに厩舎に顔を出し、検査結果を報告した。



 センさんから受けとった検査結果の用紙を見て、伊次郎がつぶやいた。
「やっぱり、そうだったのか」

「若先生はわかってたのか」とセンさん。
「ああ。センさんは、昔から、一年中、妙なクシャミばかりしてたじゃないか」

「一体なんの病気なんだ? おれたちにも教えてくれよ」と唇を尖らせた宇野に、センさんが言った。

「我ァ、馬アレルギーなんだってよ」
「馬アレルギー!?」と宇野とゆり子が同時に声を上げた。

「んだ。馬の毛やフケにアレルギーがあるすけ、鼻水が出て、クシャミが止まらなくなったんだべさ」
「厩務員が馬アレルギーって……」と、ゆり子。センさんが言った。
「医者が言ってたども、シャンプーアレルギーの美容師とか、金属アレルギーの宝石職人とか、我ァみたいに、仕事でさわるもんにアレルギーがある人って、けっこういるらしいべさ」

「で、センさんは、薬を処方してもらったのか」と宇野が訊くと、センさんは「んだ」と頷いた。

 確かに、きょうのセンさんは、「ウェーク、ション」という、いつものクシャミをまったくしていない。白髪頭が黒くなったことに加え、目も鼻もショボショボしなくなったから、顔つきまで締まって見えるのか。

「そのメガネとスーツはなんの意味があるんだよ」と宇野が訊くと、センさんは、学者のようにメガネのフレームを人差し指で持ち上げた。

「メガネはアレルギー対策だ。薬と併せて使うといいんだってよ。んで、白髪さ染めて、スーツさ着たのは、若先生が『人は見かけによるんだぞ』って言ってたからよォ」

「人は見かけによらない、の間違いじゃないの?」とゆり子。
「いんや、違う。優しそうな人は優しいし、悪そうなヤツはやっぱり悪い。長く生きれば、いずれおめえにもわかる」

 そういう意味で言ったのではないが、確かに、「人は見かけによる」というのは伊次郎の持論だった。

 特に、競馬界では、ピカピカに磨かれた馬具を使っている厩舎の馬は走るし、普段の服装からオシャレな騎手のほうが騎乗フォームが綺麗で馬に負担をかけず、それが成績のよさにつながっている――といった具合に、見てくれのいい者が、強い。

「若先生の言うとおり、見かけが変わると、中身まで変わるもんだな。なんだか、ほれ、ホントに20歳ぐらい若返って、身ィが軽くなった気がするべさ」

 と、センさんは太極拳のようなポーズをとり、つづけた。

「今までは、馬さ、さわるのが憂鬱でよォ。鼻水は出るし、体中かゆくなるし、ダルくなるし、眠くなるし、喉は痛くなるしよォ。我は仕事さ嫌いな怠け者なんだと思って、自分のことさ嫌いになってたども、これからは違うど。若先生、また我ァさ、ここで使ってくれるべか」

「もちろんだ、これからも頼む」

 センさんが初めて頼もしく見えた。

「でも、センさん。そのスーツじゃ仕事ができねえから、まずは着替えてこいよ」と宇野が言うと、センさんは「んだな」と頭をかいた。

 ゆり子と美香が笑っている。

 ――こういう気持ちになると、自然に笑うことができるのか。

 胸にあたたかいものが流れるのを感じながら、伊次郎はちらっと鏡を見た。しかし、そこに映っているのは、眉を吊り上げ、眉間にしわを寄せたいつもの自分だった。

 センさんは、本人の意識そのままに、動きまで若返った。水の入ったバケツを持って歩くのも速くなったので、馬を洗い場につないでおく時間が短くなった。

 あるとき、ゆり子がゲタゲタ笑っているのでどうしたのかと思ったら、ニンジンを切るセンさんの包丁さばきが料理人並みに鮮やかで、それが彼女いわく「ウケるー」のだという。南関東で一番馬の扱いが下手だと思われていたセンさんだが、どうやらそのありがたくないタイトルを返上したようだ。

 センさんの仕事ぶりが変わると、宇野とゆり子もつられるように変わった。遅刻ばかりしていた宇野が、だいたい時間どおりに現れるようになった。ゆり子は、大学の馬術部の主将だった他厩舎の厩務員に馬乗りの基礎を習いに行きたい、と言い出した。

 徳田厩舎の馬房に笑い声が響くようになった。

「前は下さ向いたら鼻水がたれるから、長いこと包丁さ使ったり、馬の脚さ、さわることさできなかったのよ」とセンさんの声がする。その声に、厩舎内で流すようになったクラシックの調べが重なった。

 笑顔と、明るい声と音楽。そして、小気味のいい足音。馬房から首を突き出した馬たちの前を、人影がすべるように交差する――。

 ほかの厩舎では当たり前なのだろうが、徳田厩舎では、父の時代から久しく見られなかった光景だ。

 伊次郎が本当につくりたい光景は、この先にある。やる気をどこかに忘れてきた厩舎スタッフが勝利の喜びに沸き、それに味をしめ、また勝利の味を求めて汗をかく――という日常だ。

 そのためには、上昇スパイラルへの入口となる勝利が必要だ。それも、インパクトのある勝利が。

「ゆり子、シェリーラブ、明日追い切ったら、週明けの競馬に使うぞ」
「は、はい!」

 シェリーラブは、ゆり子が、その鳴き方から「ムーちゃん」と呼んでいる芦毛の4歳牝馬だ。

 伊次郎はシェリーラブの馬房に入り、脚元の具合をチェックしてから、首差しに手をあて、馬の声に耳を傾けた。

 何も聴こえなかった。だが、聴こえるかどうかは問題ではなく、聴こうとすることが大切なのだ、と父が言っていた。

 ――親父、見てろよ。あんたから引き継いだ8頭全馬を、おれがこれから勝たせてやる。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。実は切れ者だが、小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。脱いだらすごいことが脱がなくてもわかる。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハート。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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