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18歳の誕生日目前の訃報 ユキノサンロイヤルの面影をたどって

  • 2015年05月05日(火) 18時01分
第二のストーリー

▲ユキノサンロイヤルと乗馬クラブアイル代表の米谷さん


絶対に弱いところを見せないタイプでした


 2005年の日経賞(GII)に優勝したユキノサンロイヤルを取材するために埼玉県入間郡越生町の乗馬クラブアイルを訪ねたのは、昨年の3月3日だった(→当時の記事はこちら)。

 サンロイヤルのために用意したという美しいラインストーン入りの頭絡を着けてカメラに収まった時の賢そうな瞳と、真っ黒な美しい馬体がずっと頭から離れず、また会いに行こうと思っていたのに、4月9日、突然天国へと旅立ってしまった。

 ユキノサンロイヤルは、父サンデーサイレンス、母マイアミガルチの間に1997年4月10日、北海道新冠町に生まれた。2000年1月に美浦の増沢末夫厩舎からデビューして、見事に新馬勝ちを収めて競走馬としてのキャリアをスタートさせた。以来、10歳まで競走馬として現役を続け、前述した通り日経賞に優勝するなど重賞戦線を賑わせ、障害レースでも勝利を収めるなど息の長い活躍を見せた。

 障害戦を含めて72戦8勝という成績を残して競走馬生活にピリオドを打ち、東京競馬場において誘導馬として第二の馬生を歩み始めた。馬場に出るとハミをグッと噛むなど気合いが入ってしまうために、誘導馬としては先導ではなく後方を務めていたが、芦毛の誘導馬に混じって、黒光りする青鹿毛のサンロイヤルの馬体は、緑のターフに実に美しく映えていた。

 再びアイルに足を運んだのは、ゴールデンウィーク中の5月1日だった。昨年と変わらぬ笑顔で、乗馬クラブアイル代表の米谷朋子さんが出迎えてくれる。昨年取材時は道路を見下ろせる馬房にいたサンロイヤルだが、のちに反対側の馬房に居を移し、窓から顔を出しては伸びてくる草を喜んで食べていたようだ。けれども馬房に主がいなくなってからは、草は伸び放題で、その光景がまた寂しく映った。

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▲ユキノサンロイヤルが生前暮らしていた馬房


 東京競馬場でおよそ6年の誘導馬生活を終えたサンロイヤルが、乗馬クラブアイルにやって来たのは、2013年11月28日。

「健康手帳を見ると接近注意と書いてありました。以前はそれほど強い馬だったんでしょうけど、ウチに来て1か月くらいでここは安全な場所だとわかったみたいで、噛みつくということもなかったですし、触れるようにもなりました。町内のお知らせ放送の時のキンコンカンコンという音がすると、耳をピンと立ててスイッチが入っていましたけど、それも全くなくなりました」

 米谷さんの言葉通り、環境にも慣れて調教も順調に進み、インストラクターの杉浦弘一さんが競技会に出場する日を楽しみにするまでになっていた。

「頭が良くてどんどん覚えてくれます。普通は10回ほどやって覚えることでも、1回で覚えていました。自分の仕事もわかっていたようです。馬場(馬術)と障害の両方とも良かったですよ。障害飛越もとても上手でした。最初、低い障害を飛ばせたら不真面目で、以前、本当に障害の練習をしていたのかなと言っていたのですけど、障害を高くしたら本気を出して、ファーッという安定感のある良い飛びをしてくれました。

もう少し高い障害も飛べたのでしょうけど、もう年ですし、高さは1メートルくらいの障害まででしたけどね。賢くてプライドが高くて、絶対に弱いところを見せないタイプでもありました。正に職人という感じで、職務に徹していましたよ。

左右のバランスがとても良くて、どちらかに傾くということもありませんでしたし、障害も真っ直ぐ飛んでくれました。だから馬術的なものは、もう完成間近だったんですよ。八分、九分通り、出来上がってきていました。だから来年あたり、ジャパン・スタッドブック・インターナショナルの助成金をお返しして、皆に乗ってもらいたいという話も出ていたほどなんです」

 米谷さんの口をついて出てくるのは、褒め言葉ばかり。馬術競技馬としてもかなり可能性を秘めていたことが伝わってくる。

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▲杉浦さんに甘える在りし日のユキノサンロイヤル


 ところが悲劇は前触れもなく訪れた。4月9日早朝、馬房の中で座り込んで立てなくなっているサンロイヤルを、インストラクターの杉浦さんが発見したのだ。

「皆で助け起こそうとしても、腰に全く力が入らなくて。そうこうしている間に舌が紫になってきてチアノーゼが出てきたんですよ。おかしい、おかしいと言っているうちに、そのまま亡くなってしまいました。1時間もしないうちに、本当にあっという間でしたね」

 午前7時、ユキノサンロイヤルは息を引き取った。診断名は急性心不全。さほど苦しむ様子がなかったのが、せめてもの救いだった。

「スポーツ心臓で、すごい良い心臓をしていると獣医さんにも言われていたんです。たいていの馬の安静時の心拍数は1分間に40くらい打つのですけど、あの子は26とか25でした。オープン馬になるほどの馬は、みんな心拍数がゆっくりで大きな心臓をしているんですよね。パワーもあって、スタミナもあって…。前の日は確か気温が下がって寒かったと記憶していますけど、それが影響したのかどうか…。わからないですね」

 インストラクターの杉浦さんの落胆ぶりも相当なものだった。

「(杉浦さんが)俺、もう泣いちゃいそうだよ。子供の頃から馬に乗っていてこの道40年近くなるけど、こんなことは初めてだと言っていました。もうサンロイヤルが大のお気に入りで、この馬は違うとよく話をしていましたからね。サンロイヤルが亡くなった後の2、3日は、何もする気が起きないねと、2人で話をしていたんですよ。前の夜まで、ご飯、ご飯とおねだりしていたのに、突然翌朝亡くなるのですから」

 環境にも慣れ、第三の馬生でも活躍が見込まれていたこれからという時に、ユキノサンロイヤルは突如として逝ってしまった。辛い出来事は続くもので、その6日後の4月15日には芦毛のダイワスコット(セン)が28歳で天に召された。

 大切な存在がこの世を去ると、人は大きな喪失感に襲われる。その時に「喪の作業」という悲しみのプロセスを経ることが重要のようで、十分に泣いて悲しんだ後には、やがて回復期が訪れる。「喪の作業」についてのメールを知人から受け取った米谷さんは、心が癒されて慰められたという。

 ダイワスコットのいた馬房には、ユキノサンロイヤルとダイワスコットの遺影や贈られてきた花、蹄鉄などが置かれていた。2頭のありし日の姿を思い浮かべながら、手を合わせて冥福を祈った。

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▲28歳で天に召されたダイワスコット


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 隣の馬房にふと目を転じると、芦毛の馬がいた。中央競馬、道営競馬、高知競馬と10歳まで現役を続け、今年1月30日にアイルの一員になったオグリキャップの孫のギンゲイ(牡10)だ。

「最初は紫のラインストーンをつけた頭絡をギンゲイにと考えていましたけど、サンロイヤルが使っていたラインストーン入りの頭絡をギンちゃんに継いでもらおうと思っているんです」

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▲オグリキャップの孫のギンゲイへ


 馬房の中で静かに佇むギンゲイの鼻面に触れながら、米谷さんはつぶやいた。(つづく)

(取材・文・写真:佐々木祥恵)


※乗馬クラブアイル

〒350-0412
埼玉県入間郡越生町西和田739-1
電話 0120-007-550
HP http://www.jouba-airu.com/

※引退名馬 ユキノサンロイヤルの頁
https://www.meiba.jp/horses/view/1997104619

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北海道旭川市出身。少女マンガ「ロリィの青春」で乗馬に憧れ、テンポイント骨折のニュースを偶然目にして競馬の世界に引き込まれる。大学卒業後、流転の末に1998年優駿エッセイ賞で次席に入賞。これを機にライター業に転身。以来スポーツ紙、競馬雑誌、クラブ法人会報誌等で執筆。netkeiba.comでは、美浦トレセンニュース等を担当。念願叶って以前から関心があった引退馬の余生について、当コラムで連載中。

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