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■第13回「記憶」

  • 2015年05月11日(月) 18時01分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は、厩舎改革に乗り出した。少しずつスタッフがやる気になり、厩舎が活気づいてきたが、管理馬がなかなか勝てず、またダレ気味に。そんなあるとき、競馬史研究家が訪ねてきて、伊次郎の曾祖父・徳田伊三郎について話しはじめた。



 競馬史研究家の鹿島田に見せられた写真が、伊次郎の古い記憶――父に「伊次郎」と名づけられた理由を聞かされたときよりさらに前の光景――を呼び起こそうとしていた。

 喪服を着た大人たちが精進落としの席についている。さっきも瞼の裏に浮かんできた、誰かの葬儀会場か。二重アゴで、二の腕も胴体もボンレスハムのようにふくらんだ中年女性が3人、いや4人か……数は定かではないが、何人かが、みな似たような顔をして、こちらを睨みつけている。

 そのシーンに、曾祖父の徳田伊三郎の笑顔が重なった。

 ――そうだ。おれは、小さいころは普通に笑っていたんだ。

 少しずつ、いろいろなことを思い出してきた。

 確かによく笑っていた。しかし、子供のころからオヤジ顔だったため、親戚からも「とっちゃん坊や」だの「ガキじじい」だのと、ひどい呼ばれ方をした。

 親以外の誰かに可愛がられた記憶は皆無と言っていい。顔だけが理由ではない。伊次郎には、人に嫌がられる妙な性癖というか、特技がいくつかあった。カラスなどの嫌われ者の動物とも仲よく遊んでいたのがそのひとつ。もうひとつは、パッと見ただけで相手の体重を言い当てることだった。

「あ、おばさん、62キロちょっと。そっちのおばさんは68キロぐらいだね」などとズバズハ的中させ、いい気になっていた。

 女性に年齢と体重の話をしてはいけない、と知ったのは、もっと大きくなってからだ。

 その妙な特技のせいで、親戚の太ったおばさんたちにはいつも睨まれていた。

 ――いや、ほかにも睨まれる理由があったような……。

 思い出そうとすると頭痛がした。痛みを和らげようとこめかみを揉んだとき、憎々しげな声が蘇ってきた。

「笑うとそっくりだね」

 ――そうか……、そういうことか。

 目をあけて、テーブルに置かれた写真の曾祖父の笑顔を見て合点がいった。

 ――おれは、親戚のおばさんたちに、「徳田伊三郎にそっくりだ」と言われていたのか。

 親戚は、自分たちが「ヘン徳」などとあだ名された男と同族であることを恥じ、それを隠そうとしていたのかもしれない。

 だから、ヘン徳に瓜二つの伊次郎は「恥の象徴」だったのか。そう考えると、競馬サークルに入った伊次郎の父が責められた本当の理由もわかってきた。

「こちらもご覧ください」という鹿島田の声で現実に引き戻された。

 それは、昭和56年に中央競馬ピーアール・センターから出版された『日本の騎手』という本だった。鹿島田が、騎手たちの写真が掲載されているページをひらいた。そのなかに、「高橋伊三郎(旧姓徳田・函館大経)」とキャプションのついた写真がある。時期は定かではないが、伊三郎は高橋という人のもとに婿入りしたあと、一度徳田姓に戻ってから、高橋姓を名乗るようになったようだ。そんな彼は、「日本馬術界の英雄」と呼ばれた函館大経の直系の弟子だった。

 口取り写真だろうか。「天神乗り」が主流だった時代の騎手にしては膝の曲がり方が深い。この鐙の長さだと、モンキー乗りに近い騎乗姿勢だったのではないか。手綱の握り方を見ただけで、軽く、ふわっと乗る技術にたけた騎手だったことがわかる。

 この写真の伊三郎は笑っていない。

「仏頂面も、あなたとよく似ていますね」と鹿島田。
「ああ」と頷いた伊次郎本人もそう思うくらい、よく似ている。

「徳田伊三郎氏は、『一流』の部類に入る騎手でした。昭和7年の第1回日本ダービーはアサハギで3着、第2回は牝馬のメリーユートピアで2着と、いずれも人気より上に持ってきています」

 鹿島田の口調は、「ヘン徳」の末裔であることを恥じるべきではない。それどころか誇るべきだ、と言っているかのようだった。

「58歳まで現役だったのか」と伊次郎。
「はい。戦時中の1942年まで調騎兼業の騎手として馬に乗っていたようです。最年少ダービージョッキーの前田長吉と同じレースに出て勝った、という記録も残っています」

「当時の58歳は、今で言うとどのくらいになるんだ」
「単純な比較はできませんが、男性の平均寿命が50歳未満の時代ですから、70代まで乗りつづけたようなものでしょう」

 話を聞いていたゆり子たち従業員から「オオッ」と声が上がった。

 鹿島田は、それに勢いづけられたかのようにこうつづけた。

「実に面白い。それに比べて、あなたが似ているのは顔だけだ」
「なんだとォ〜!?」

 伊次郎は目を剥いて、こめかみに血管を浮き上がらせた。

 徳田厩舎の大仲は、水を打ったように静まり返った。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。

■鹿島田明(かしまだ あきら)
競馬史研究家。年齢不詳の変わり者。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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