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松田大作騎手(3)『人間としてもかっこいいミルコが大好き!』

  • 2015年05月18日(月) 12時00分
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▲初来日の時から意気投合!M.デムーロ騎手との秘話に迫る


これまで、アメリカとイタリアへ武者修行に行っている松田騎手。海外という違った環境に身を置くことで、フレッシュな気持ちで競馬に向き合えると言います。イタリアへは過去2度訪れていますが、その立役者となったのがミルコ・デムーロ騎手。彼の初来日の時から意気投合したという、ふたりの秘話に迫ります。(取材:赤見千尋)


(つづき)

最初の出会いは忘れもしません


赤見 環境を変えたくて海外に行かれたということですが、結構早くから行かれていましたよね?

松田 最初に行ったのが、二十歳ぐらいの時ですね。いろいろなことが上手くいかなくて、腐りかけていた頃だったんですが、馬乗り自体は変わらずに好きでしたし、海外の競馬にも興味があったので、(武)豊さんや千田先生と一緒にアメリカに行かせてもらったんです。向こうのジョッキーって、本当にカッコイイ。とても刺激を受けました。

赤見 じゃあ、機会があったらまた海外に行こうかなと?

松田 そうですね。ちょうどその頃ミルコが初めて日本に来て、すごく仲良くなったんです。「イタリアに来てみないか?」って誘ってもらって、1か月ぐらい行くことにしたんですね。それが2001年。向こうにいる間に、9.11の同時多発テロが起きたんです。これは戦争が起きるかもしれないって思ったし、向こうの皆もすごく心配してくれて、すぐに帰って来ることになったんです。

赤見 それはすごいタイミングでしたね。

松田 そうなんですよ…。実は2度目にイタリアに行った時に、東日本震災が起きたんです。あの時のこともよく覚えています。日本に帰る間際のタイミングだったんですけど、朝調教をしてたら「日本が大変なことになってるぞ」って言われて。「えっ!?」って慌ててテレビを見たら、びっくりするような、言葉にもできないような光景が映っていました。もう、いてもたってもいられなかったですね。

赤見 海外だと情報もあまり入ってこないですし、不安ですね。

松田 知り得る情報は薄かったですね。でも、日本に電話して状況を聞いただけでも、大変なことになっているのは十二分に伝わってきましたからね。

赤見 この時にイタリアで募金を呼び掛けて、被災地へ寄付されたっていうのがニュースになりました。懸け橋になられましたね。イタリアは、競馬サークル自体が厳しくなっていると聞きますが、行かれてみてどうでしたか?

松田 僕が行った時はすでに傾きかけていたので、経済的には大変なのかなと思いました。でも、競馬自体は開催されていますし、そういう状況であってもジョッキーや関係者のモチベーションは変わっていませんでした。感覚ですが、日本のジョッキーより向こうのジョッキーの方が、馬が好きだなとは思いますね。

赤見 小さい頃から馬が身近な環境っていうのもあるんでしょうか。

松田 それもあるかもしれないですし、馬に携わっている時間が長いような気がします。競馬が毎日あるので、余計にかもしれないですね。

赤見 あと、イタリアというとすごく陽気なイメージがあります。

松田 陽気ですね〜。僕が行っても、皆さん受け入れてくれましたし。まあ、レースになるとさすがに違いますけどね。僕の場合はミルコという人間がそばにいてくれて、彼がコネクションをつくってくれていたので、すごくやりやすかったのはあります。

赤見 何かとまどいはなかったですか?

松田 言葉ですね。7割ぐらいの方は英語がしゃべれないので、それは結構困りました。

赤見 最初に覚えたイタリア語の単語は何ですか?

松田 ええと、……言えないですね。なんて言うか、あっち方面で(笑)。そういうことばっかり教えられましたからね。

赤見 そういう方が打ち解けやすそうです(笑)。それにしても、1か月や2か月、長い時は半年以上日本を空けるのは、勇気が要りませんでしたか?

松田 僕の考え方ですけど、怪我で半年休んだこともあって、怪我して休むのも、勉強のために海外に行って休むのも、休みは休みじゃないですか。大事なのは帰ってきたときにどういう気持ちで、どういう思いで競馬に携わっていけるかだと思うので、休んで収入がなくなることに関しては、何も思わなかったですね。

赤見 乗り馬がいなくなったらどうしようというのは、不安ではなかったですか?

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▲競馬は競争の世界、赤見「乗り馬がいなくなったらどうしようという不安は?」


松田 それも、今のように外国人ジョッキーがたくさん日本へ来て、乗り馬が集まっていくのも同じようなことですからね。そういうことを気にするより、自分の騎乗技術を磨いて、馬のこともしっかり勉強して、結果を残して、そうやって自分さえしっかりしていれば、乗り馬はちゃんと集まってくるんじゃないかなと思います。

赤見 その辺り、すごく強いですね。

松田 どうなんですかね。最初は長く日本を空けることに心配もありましたけど、先々の人生を考えたら長いですし、その間の半年だと思えば短いことだなって。あとは自分がしっかりやるまで。それで駄目だったら仕方ない。これしかないです。

赤見 こういう経験がご自身の血となり肉となりで。

松田 そうですね。思い返せば、向こうでもっとこんなことをしておけばよかった、こんなことを学んでおけばよかったというのはありますけど、経験出来たことは楽しかったですしね。これからの人生の中で、この経験をもっと活かしていけたらと思います。

赤見 2度目のイタリアから戻られて、2013年には過去最多の47勝。結果としても表れていますね。

松田 それまでがごく普通でしたからね(苦笑)。イタリアから帰ってきて、信頼してくれるスタッフの方たちが少しずつ増えていったなという実感はあります。そういう方たちのお蔭で、たくさん勝たせてもらえました。こうやって少しでもいい数字が出せると、もう少しジョッキーをやっていられるかなって思いますね。

赤見 そんなそんな。親交のあるデムーロジョッキーが、通年で乗れることになったのはいかがですか?

松田 僕は非常にうれしいですね。プライベートでも結構一緒にいます。ミルコって、馬乗りとしてもすごいですし、人間としてもかっこいいんですよ。いろいろなことに愛がある。素敵ですよ。大好きです!

赤見 初来日の頃からですから、もう15年以上のお付き合いですか。

松田 そうなりますね。最初の出会いは忘れもしないです。ミルコのマネジャーの方が小倉の調整ルームで、「大作、ちょっと」って呼ぶんです。何かなって思ったら、「この子、イタリアからきたジョッキーだから、仲良くしてあげてね」って。「わかりました!」って言ったら、ミルコが「よろしく!」みたいな感じでニコってしたので、僕も「よろしく」って。

赤見 そこから始まったんですね。

松田 はい。その日から早速、お互いの部屋に行ってしゃべってました。

赤見 話せたんですか?

松田 いや、しゃべれないので「あの〜」みたいな感じで。あとはジェスチャーでの会話。ミルコも、当時は英語下手くそだったんですよ。その頃は翻訳アプリみたいなものもなかったので、本当にジェスチャーで会話してましたね。

赤見 通じ合うものがあったんですね。

松田 ミルコと僕、同い年なんですよ。

赤見 なるほど。それはなおさらですね。デムーロジョッキーに日本語を教えたのは、松田騎手ってことですね。

松田 きっとそうですね。まあ、何を教えたかはノーコメントで(笑)。でも、ミルコと仲良くなれて良かったなって心から思えます。

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▲「ミルコと仲良くなれて良かったなって心から思えます」


赤見 デムーロジョッキーがJRAを受験する時は、相談を受けたんですか?

松田 そうですね。まあ、相談といっても、僕にできることなんて何もないんですけどね。ただただ受かってほしかった。もちろん、同じジョッキーとして見ると、本当に強いジョッキーが来てしまったなという思いはあります。でも、その分頑張らないといけないなと思って。

赤見 励みになることでもあるんですね。

松田 ええ。自分も頑張れば、ミルコほどにはなれなくても、それなりには食らいついていけるんじゃないかなって。そういうのはモチベーションになりますね。何より彼は、JRAの歴史を変えたわけですからね。本当にすごいと思います。そういう姿を近くで見たり、彼の技術もバンバン盗んで、自分自身の向上につなげていきたいなと思います。

(文中敬称略・つづく)

東奈緒美 1983年1月2日生まれ、三重県出身。タレントとして関西圏を中心にテレビやCMで活躍中。グリーンチャンネル「トレセンリポート」のレギュラーリポーターを務めたことで、競馬に興味を抱き、また多くの競馬関係者との交流を深めている。

赤見千尋 1978年2月2日生まれ、群馬県出身。98年10月に公営高崎競馬の騎手としてデビュー。以来、高崎競馬廃止の05年1月まで騎乗を続けた。通算成績は2033戦91勝。引退後は、グリーンチャンネル「トレセンTIME」の美浦リポーターを担当したほか、KBS京都「競馬展望プラス」MC、秋田書店「プレイコミック」で連載した「優駿の門・ASUMI」の原作を手掛けるなど幅広く活躍。

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