【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎の厩舎改革で、少しずつスタッフがやる気になってきたが、管理馬が勝てず、またダレ気味に。そんなあるとき、競馬史研究家が訪ねてきて、伊次郎の曾祖父・徳田伊三郎について話しはじめた。
似ているのは顔だけ――という鹿島田の言葉はつまり、徳田伊三郎の一流ホースマンとしての技量も、58歳まで騎手をつづけた胆力も、何ひとつ伊次郎には受け継がれていない、という意味だ。
他人の無責任な批判や中傷などなんとも思わない伊次郎も、このときだけは、自分でも不思議に思うほど腹が立った。
自分は曾祖父の伊三郎のことをそれほど詳しく知っているわけではない。鹿島田に言われるまで記憶の片隅に封じ込められていたぐらいだから、格別意識していたわけでもなければ、敬意を払っていたわけでもない。にもかかわらず、似ていない、劣っていると言われただけで、こんなに嫌な気持ちになるのはなぜだろう。
不意に鹿島田が立ち上がり、大仲の出入口から馬房を覗き込んだ。
「なるほど、敷料はホワイトウッドでできたペレットを使っているんですね。カナダ製かな。そして、厩栓棒を使わず、弾力性のある横長の幕ですか。あれはアメリカで使われているものだ」
その鹿島田の口調に嫌味なものを感じ、伊次郎が言った。
「競馬史の専門家が、今の世界の競馬事情もご存知とはね」
「歴史を学ぶとはそういうことです。掘り下げていくと、どんどん穴がひろがり、自然と周囲を見回すことになる」
「お宅と抽象論を交わす気はない。用が済んだのなら、お引き取り願えるかな」
鹿島田はそれには答えず、大仲のホワイトボードに記された調教内容とレーススケジュールを眺めはじめた。首から下がった何本ものペンやメガネ、ルーペなどがガシャガシャと耳障りな音を立てている。
「ふむ、いかにも優等生的な厩舎再建策ですな」と鹿島田。
「どういう意味だ」
「寄せ集めと言ってもいい。厩舎内にクラシックを流すのは誰それ流、敷料はさるオーナーブリーダーの育成場と同じ、坂路のある外厩を使うのも、成績のいい厩舎を真似た結果、といったようにね」
「それのどこが悪い」
「悪いなんて言ってません。優等生的だ、と言っただけです」
「あんた、ケンカ売ってんのか」
「ふっ、ケンカなどしないあなたに、売りようがありません。本当はあなたも、自分のやり方の限界に気づいてるんでしょう」
「……」
「管理馬の血統や成績は調べさせてもらいました。こう言っては失礼だが、見事な三流揃いだ。あなたが採用している手法は、一流の素材から一流の力を引き出すには有効なのかもしれませんが、同じ効力を、今の人馬のラインナップで期待できるかとなると、どうでしょうか」
確かに、鹿島田の言うとおりだった。
今、伊次郎がしているのは、落ちこぼれをいきなり進学クラスに放り込み、エリートコースを歩ませようとしているようなものだ。
しかし、「人は見かけによる」が持論の伊次郎は、「型」から入ることはけっして悪くないと思っている。センさんがそうだったように、身なりをきちんとするだけで気持ちまでシャンとする。地位は人をつくるし、いいクルマに乗っていると運転が上手くなる。「入れ物」に中身が自然と合わせようとするからだ。
超一流の血統馬に用いられているのと同じ敷料の上で過ごし、同じものを食べ、同じ音楽を聴き、同じコースを走っているうちに、中身が追いついてくる――はずだった。が、さっぱり結果が出ない。
「『いいとこどり』という言葉がありますよね」と唐突に鹿島田が言い、つづけた。
「けっして響きのいい言葉ではない。さまざまなものの利点だけを集めてみたのはいいが、何も生み出さない。そういうケースが多いからできた言葉でしょう。サンデーサイレンスの優れた産駒は、父の素晴らしい瞬発力などと一緒に、口向きの悪さなどの欠点も受け継いだ。よさを強く受け継いだ馬ほど、悪さも強く受け継いでいる」
「だからなんだというんだ」
「あなたはヘン徳の末裔です」
「あ、ああ、そのとおりだ」
「日本の競馬史上、誰よりもバランス感覚がなかったのに、一流ホースマンになった稀有な血が、あなたには流れている。ヘン徳さんは、奇行も多かったが、若くして函館大経一門から独立し、『日本競馬の父』安田伊左衛門らが創設した東京の池上競馬場にすぐさま騎乗ベースを移すなど、進取の精神も豊かな人だった」
「ほう……」
「おそらく、ヘン徳さんは『止まった時計』だった。止まったアナログ時計。いつも、陽射しが心地よい午後2時ちょうどぐらいで止まっていた。だから、自分の年齢など省みることなどなく、あの年齢まで騎手をつづけられたのでしょう」
伊次郎の頬が、さっと赤くなった。
「な、なるほど……そういうことか」
「わかったようですね」
「ああ、やっとな」
「それはよかった」
「いや、鹿島田さん、ありがとう」と伊次郎がテーブル手をついて頭を下げた。センさんも宇野もゆり子もポカンとしている。
「ヘン徳さんの遺品などがもし出てきたら、ご連絡ください。直筆の手紙などがあると非常に資料価値が高い。長年騎手として活躍した徳田伊三郎自身が『生きた競馬史』だったわけですからね。その末裔に会えて、きょうは本当に素晴らしい日でした」
鹿島田は深々とお辞儀をし、大仲から出て行った。
「ヘン徳の末裔か。バランス感覚か。止まった時計か」と伊次郎は独りごち、こめかみに血管を浮き上がらせ、目を剥いた。
外を一陣の風が吹き抜け、梅の木に止まっていた鳥たちが飛び去った。
伊次郎は、壁際に並んだ厩舎スタッフをギロリと睨みつけた。
(つづく)
【登場人物】
■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。
■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。
■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。
■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。
■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。
■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。
■鹿島田明(かしまだ あきら)
競馬史研究家。年齢不詳の変わり者。